映画『ひゃくえむ』を観終わったあと、胸の中に静かに残るのは「なぜ人は走り続けるのか」という問いでした。


100mという距離は、ただの数字ではありません。人間に価値を与えるものでもあり、不安や葛藤を突きつけるものでもあります。陸上はシンプルです。誰よりも速く駆け抜ければ、それだけで勝者になれます。その単純さの中に、人が抱える複雑な思いが濃縮されていました。


登場人物たちは、不安を消そうとはしません。むしろ、不安を抱えたまま「on your marks」とスタートラインに立ちます。現実を直視することは恐ろしく、目を閉じても逃げ場はありません。それでも走り出すのは、走ることでしか現実に触れられないからだと思います。


この映画は観客に問いかけます。何の為に走り続けるのか?

勝つため、自分を証明するため、ただ「ガチになる」ため。理由は人それぞれでも、本気でいるときにこそ人は幸福を感じられるのだと、本作は教えてくれます。


100mという短い距離には、この世のシンプルなルールが凝縮されています。誰よりも速く走れば、全ては解決する。それは残酷でありながら、美しくもある真実です。


『ひゃくえむ』は、陸上を知らない人であっても「陸上っていい」と感じさせてくれる映画でした。観終わったあとも、その余韻は心に長く残り、走ることと生きることが重なって見えてきます。


そして思い知らされます。人生の100mは一度きりで、立ち止まれば終わってしまうということを。歓声が消えても、風が止んでも、時は待ってはくれません。だからこそ、全力で駆け抜ける姿は痛いほどに美しく、心を揺さぶります。


『ひゃくえむ』はただの青春映画ではありません。それは観る者に、あなたは何のために走るのかと突きつけ、逃げ場のない現実の中で、本気で生きることの意味を強烈に刻み込む作品でした。


そしてスクリーンを離れたあとも、その問いは観客の胸の奥で走り続け、決して止まることはありません。




東野圭吾の新シリーズとして大きな期待を背負って公開された『ブラック・ショーマン』。公開3日目の日曜日、横浜の劇場は幅広い世代の観客で埋め尽くされていました。


まず印象的だったのは、冒頭を飾るテーマソングです。新シリーズにふさわしい力強さとミステリアスさを兼ね備え、作品全体を「ただの推理劇」ではなく「人生の物語」へと昇華させる余韻を与えていました。


謎解きの要素は東野作品らしく巧妙で、観客の推理心を刺激します。派手なトリックに頼らず、登場人物たちの心理や関係性の中に巧みに伏線を織り込む手法は健在で、ラストに向けて少しずつ解き明かされていく過程に引き込まれました。


しかしこの映画の真髄は、ミステリーの枠を超えた「父と娘」の物語にあると感じました。事件を通して描かれる親子の絆は静かに、そして確実に胸を打ち、気がつけば涙を誘います。


「人生のショータイムは思ったより短い」――映画が残すこの余韻は、エンターテインメントでありながら観客自身の生き方にも響いてきます。ミステリーを観に来たはずが、最後には人生のはかなさと温かさを考えさせられる、そんな作品でした。


シリーズの今後にも期待したくなる一作です。



「新しい靴は新しい場所に連れていってくれる」――その言葉を体現するように、『九龍ジェネリックロマンス』は観る者をどこか懐かしい、けれど確かに新しい場所へと連れていってくれる。


舞台は、現実と虚構、過去と未来が入り混じる「九龍城砦」の再構築された世界。ここで繰り返される日常と愛の記憶は、ゼーガペインを彷彿とさせるタイムループのように、幾度も繰り返されながら観客を巻き込んでいく。だが、そのループは決して冷たいシステムではなく、「ずーっと夏」を思わせる温度を持つ。蒸し暑さや埃の匂い、蝉の鳴き声のような記憶のざわめきが、映画全体を包み込んでいるのだ。


物語の核心にあるのは、「愛する人をどうやって失うか」、そして「その死をどうやって昇華するか」という問い。過去の喪失は避けられないものとして描かれるが、だからこそ生きること、愛することの切実さが際立つ。懐かしい風景での生活は幻想に過ぎないかもしれない。しかし、その幻想を通して「今を生きる」というリアルが立ち上がる。


本作の魅力は、ただのノスタルジーではなく、「懐かしさの中で新しい愛を紡ぎ直すこと」にある。記憶の反復を受け入れながらも、そこから抜け出す一歩を踏み出す力を描くのだ。まるで新しい靴を履いて、未知の街角へと歩き出すかのように。


『九龍ジェネリックロマンス』は、過去を抱きしめながら未来へと進むための映画であり、愛する人を失ったすべての人に捧げられた、やさしくも力強いラブストーリーである。


――ずっと続く夏の中で、私たちはまた「誰かを愛すること」を選び直すのだ。