一日に二つの映画を観た。
ひとつは劇場の暗闇で、
もうひとつは家の静けさの中で。
どちらも、
人の輪郭をそっと削り取っていった。
まぶしさのあとに、
少しの痛みを残して。
『愚か者の身分』は、
間違いながらも生きる姿を映す。
その愚かさは、
恥ではなく、
人間であることの証だった。
『ハウス・オブ・ダイナマイト』の人々は、
賢さに縛られ、
知識に傷つきながら生きていた。
愚かさも、賢さも、
どちらも同じ光を内包していた。
どちらの世界も、最初は穏やかだった。
だが静けさの奥には、
押し殺された声が、
見えない痛みが眠っていた。
『ハウス・オブ・ダイナマイト』では、それが爆ぜる。
『愚か者の身分』では、それが溶けていく。
違う形でも、
「壊れる前の予感」は共通していた。
運命と向き合う姿は、
破壊か受容かで色を変える。
『ハウス・オブ・ダイナマイト』の人々は、
自らを爆破することでしか
生きることを実感できなかった。
『愚か者の身分』の人々は、
運命を抱きしめることで、
小さな光を見つけようとした。
どちらも優しくも残酷な選択だった。
二つの映画は、
互いに鏡のようだった。
壊すものと、抱きしめるもの。
叫ぶものと、黙るもの。
それでも残るのは、
愚かさの中に宿る
人間の美しさだった。
あの日、二つの物語を通して、
世界の温度を少しだけ知った。

