当時、カメハメハ大王のハワイ統一から100年ほど続いたハワイ王朝は、転覆の危機にあっていた。
新政府は国民に人気のあるリリウオカラニの力をそごうとしていた時期だった。
その渦中、リリウオカラニ女王は新政府に対して謀反をおこしたという罪で、1895年1月から8か月間、イオラニ宮殿に幽閉された。
厳しい警護の元、訪れる人もなく、手紙のやり取りは検閲され、新聞を手にいれることも禁止されていた。
以前は、たくさんの侍女にかしずかれていた女王だった。
しかし、ここで仕えるのはただ一人、エヴリン・タウンシェンド・ウィルソンのみという、さみしい生活を強いられていた。
唯一、生活を潤してくれたのは、エヴリンの息子、ジョンが定期的に届けてくれる花であった。
花束は当時のホノルルで発行されていた新聞で包まれていた。
それは、外部との接触を断たれていた女王が唯一、社会の情勢を知る手段であった。
女王は音楽の才能に恵まれていた。
生涯のうちに160曲を超える曲を作ったという。
有名な「アロハ・オエ」も彼女の作である。
幽閉中の無聊を慰めるために、彼女はいくつかの曲を書いた。
そのうちの一つがこの曲である。
ジョンによって届けられた花束は、いつもオアフ島の南、パウオア谷のウルハイマラマにある、女王が植物園として提供した土地に咲く花々だった。
ところが、女王のワイキキにある私邸であるパオアカラニ(王家の香り)に咲く花が入っていたことがあった。
この家は、彼女の祖父のアイカナカから相続したものであった。
この愛する邸宅で、女王はハワイの伝説を翻訳し、作曲に明け暮れる日々を送っていたのだ。
イオラニ宮殿で、心細い日々を送る女王は懐かしい再会に胸を打たれ、思わずこの曲を書いたのであろう。
優しいそよ風がこちらへと吹きよせる
あなたの甘く、大切な思い出とともに
それは色あせることのない甘い花
パオアカラニのおかに咲く
たくさんの麗しい花を見てきた
ウルハイマラマに咲く
しかし、どの花もくらべものにはならない
パオアカラニのおかに咲く私の花が一番美しい
愛する人の美しいおもざしを見る
漆黒のように黒い優しい目を持つ
ほのかなピンク色をぼかした頬
パオアカラニのおかに咲く花
私の愛する人よ、名前を教えて
通り過ぎる優しいそよ風よ
美しく咲いた花を運んできておくれ
パオアカラニのおかに花咲く花を
ジョン・ウィルソン青年について少し。
1871年にハワイのホノルルで生まれた。
父はチャールズ・B・ウィルソン(1850―1926)で、スコットランド人とタヒチ人の血を引く。
彼ははカラーカウア王のもとで水道事業の監督官と消防署長を務めた。
リリウオカラニ女王のもとでは、王国の陸軍元帥だった。
女王と共にイオラニ宮殿に幽閉されていた彼の母は、4分の3がヨーロッパ系、4分の1がハワイ系の血をひく、エヴリン・M・キティまたはキティ・タウンゼントだ。
1820年にアメリカ外国宣教委員会の最初の宣教師をハワイに連れてきたサディアス号のヘンリー・ブランチャード船長の孫娘だった。
ウィルソンは、1891年、女王からの資金援助を受け、カリフォルニアのスタンフォード大学に入学するが、1893年の王政転覆後の資金不足により、1894年に大学を去っている。
アメリカ本土にそのままいた彼は、王政復古を目指す革命家たちから資金提供者を探しているとの打診を受ける。
彼は反乱軍による武器増強の一環として、マウイ島への銃と弾薬の密輸に参加したが、革命が暴露され、戒厳令が発動された後、作戦は中止された。
その後、ハワイに戻ったウィルソンはマウイ郡とホノルル郡の道路技師を務めた。
1900年4月30日には、ハワイの民主党を組織する会合に参加している。
ウィルソンは1920年から1927年、1929年から1931年、1946年から1954年の3回、合計19年間、ホノルル市長を務めた。
彼はは市長として、1929年に完成したホノルル・ハレ(ハワイ州ホノルル市郡の市庁舎)の完成を監督し、市政府の機能を統合した。
また、1956年まで州の祝日であるカメハメハ・デーを調整するなど、いくつかの領土委員会の委員も務めている。
このメレは花を届けてくれたジョン青年のために書かれたメレ・イノア(その人を讃える歌)であると言われている。
♬ Kuu Pua I Paoakalani by George Helm
Kuu Pua I Paoakalani, Huapala