大田区郷土博物館② | なおひとずの哲学カフェと観光日記

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大田区郷土博物館の続き。

 

歌川広重(二代)「三十六花選 東都六郷 梨子」

慶応2(1886)年

 

「六郷一帯ではかつて梨が盛んに生産されていました。

多摩川下流域での梨栽培は、完成・享和年間(1789~1804)頃に

大使河原を発祥として始まったとされています。」

 

と書いてある。

 

1886年とは明治19年だそうだ。

歌川広重 二代とは江戸時代末期から明治の初期にかけての画家で

歌川広重の門人だそうだ。

wikiによると明治2年(1869年)に死去したとのこと。

 

その通りだとここの記述とは合っていないが歌川広重は4代目とかまでいたそうな。

 

 

六郷用水で使われていたという「蛇腹」という器具。

 

説明文

「揚水用の水車。踏み車ともいいます。

干ばつや早春の頃など用水や湧き水の水位が田より下がったときに

使用しました。

回転する羽根の部分を足踏みして水を押し上げ田に揚げ入れます。

小型の蛇腹は手で回しました。」

 

田んぼに水をくみ上げる器具だったんですね。

 

 

そして「六郷とんび凧」

 

>六郷で語られる鳶凧の由来「六郷の鳶凧」は、江戸時代の終わりごろ、

八幡塚村(東六郷)の人が多摩川の河原で捕まえた鳶を見ながらいろいろ工夫して作り出したという。

 

 

>多摩川で獲った魚を河原に並べて干したところ、カラスの群れに荒らされて困った。

そこで鳶凧を上げたところ、カラスが驚いて逃げ回ったことから盛んに作られるようになったというのである。

これは、六郷の凧屋の一軒であった竹内権次郎翁が伝えていた鳶凧の由来である。<

 

大正時代には多く作られて国内のあちこち、北海道から沖縄までで売られ、果てには

米、英、仏、カナダなどにも輸出されたという。

 

第二次大戦中に凧造りは途絶えてしまったがその後復活し

 

>「古川薬師凧の会」による凧揚げ大会が昭和58年から大田区西六郷の安養寺(古川薬師)

近くの多摩川河川敷を会場として成人の日に行われるようになった。<

 

という。

 

 

●六郷用水沿いの野菜洗い場

 

嶺の旧護摩堂橋(西嶺町21-27)にあったという洗い場。

 

 

●区営六郷ゴルフ場

(昭和43年)

 

 

昭和32年に多摩川河川敷(西六郷4丁目地先)に18ホールのゴルフ場

が開設されたという。

 

戦後、ゴルフ場跡地が昭和47年に多摩川緑地運動場として整備された。