みなさま、こんばんは

いつも、ありがとうございます


先日のセッションでのこと。


ノートに書いた、わたしがある動画を観て泣いた件について、ガイドさんから質問を受けました。


その動画は、飢餓が深刻になっているガザに、食料支援に入ったNPO団体の職員7名が、自動車3台で移動中に、イスラエル軍の空爆で亡くなったというものでした。


彼らは、安全な道を走り、車の屋根には団体のロゴマークが大きく描かれており(上から見ても分かるように)、事前にイスラエル側にも伝えていたということです。


動画では、彼らが、食材を並べ、お料理の準備をしている様子が映し出されており、女性職員の元気で明るい笑顔が印象的でした。


その彼らがその後、亡くなってしまったと聞き、いきなりお腹の底からぐわっと湧きあがってくるような塊を感じて、瞬間的にわたしは泣いていました。


それは本当に突発的で、感情を感じる間もなくおこったので、何故、自分でも泣いたのか分りませんでしたが、それは「悲しみ」であることは自覚できました。


わたしは何故泣いているのだろう?と理由を探ろうとしましたが、いくつか推察はできるものの、これという一致したものは見つかりませんでした。


人が殺されるのは悲しい。

さっきまで、笑って話して動いていた人が、こんなにもあっけなく亡くなってしまうのか。

いとも簡単に殺されてしまう。そして殺せるのだ。

命とはそんなに軽いものなのか。

他の困っている人のために行動している人が殺されるなんて。。。

きちんと、ルールを守っていたのに。。。


セッションでガイドさんから、何に反応したのか問われた時にも、思いつくままに言ってみましたが、どれも後付のような感じがして、あの瞬間に感じたものとは違うように思えました。


もしも、このニュースが文字のみで淡々と事実を述べたものだったら、わたしは泣かなかったのではないかと思い、おそらくドラマ性に反応したのではないかと答えました。


ガイドさんは、それ以上は追求せず、感情は2元構造のシステムであると説明してくれました。それは、ゆかさんがブログにも書いて下さっています。





その後、動画を観て泣くということが、2回程続けてありました。それらは、何に反応して泣いたか、解っていますが、それは問題ではないのでしょう。


繰り返しているな〜、観察案件だなと思うのですが、まだ、まとまりがつかなくて、それぞれがバラバラな感じです。整理をして、もう少し自分の中に落とし込んで、観察を続けようと思います。


何だか中途半端に終わる感じがして、もやもやします。

種が明かされれば、本当はとてもシンプルなことなのではないかと思いますが。


わたしが分かりたくなくて、感情を手放したくなくて、抵抗しているのかも知れません。


感情を味わうのが好きだったし、感情があるからこそ人間でしょうと思っていたし、カサカサな乾いた心でいるより、感情が豊かな方が、潤いある彩り豊かな日々が過ごせるのではないかと思っていたからです。


でも、それは錯覚であるのかも知れません。解脱をするなら、その設定を変更する必要があると教えられ、そろそろ感情ゲームを終わらせたいところです。


自分と向き合えるようになるまでは、感情を抑圧して感じないように生きてきたので、やっと感情が出てきて、出すことが出来るようになったことを、嬉しく喜んでいましたが。。。


長年に亘り、感情と共に生き、感情はあると信じ込み、感情と一体化してまいりました。これを剥離出来るものなのか、信じ難い気もいたしますが、相応の年月がかかると思いますが、決める選択をします。


共に居て下さり、ありがとう

読んで下さり、ありがとうございます