書いた言葉は読み返すとどれも空疎で。
書いては消し、また書いてはため息を吐き・・・

頭を抱えていると、息子の「腹減った」の連呼に負けて(実は自分も腹減っていたww)、冷蔵庫を覘いたら、ブロッコリーといんげんが中途半端に残っていたので、にんにくのチューブを使ってあり合わせのぺペロンチーノを。

ちなみに、器はどんぶりでっせ!(笑)
これ、ツイッターで昼間呟いているので、2度目の方はごめんなさい。(笑)
腹が満たされて、多少はマシに書けるかと思ってレポートにトライするも、やっぱり全くダメ。

書いた人間が、読み返してみてつまらないんじゃあ、どうしようもないよね。
形式的なモノなら幾らでも書けるけど。
以前は、そんなコト全く考えずに、思った通りのコトを書いていて。自分が言うのもなんだけど、アツいレポートが書けていたと思う。いいかどうかは分からないけど。
それが、最近できなくなった。
思い至って、ある方のブログをずっと読み耽っていました。
落ち込んだり、立ち上がったり、希望を持ってはどん底に落ちたり。何気ない日常の中で、その方の繊細すぎる心は、揺らぎに揺らぐ。
ともすれば、それは鋭すぎる刃であったり、触れたらくず折れてしまうような儚いモノで、思わず「大丈夫なの?」と心配してしまうくらいの感情が溢れていて。
でも、必ず1本の心棒というモノはあって、それだけは決して揺るがない。
それは、「歌いたい」という気持ち。
とにかく、ひたすら「自分」という壁に立ち向かっていて。決して、「他人」に対する言葉ではない。
そこに書かれている文書は、全て自分自身に対する思いをひたすら隠さずにぶつけている、「自分」に対しての言葉だった。
ここまで「自分」を見つめて、痛々しいほどに突き詰めていく文章というモノを、僕はあまり見た記憶がない。
「今」の彼女があるのは、まぎれもなく「自分を見つめる」コトから逃げなかったから。
僕が勝手にそう思っただけだけどね。ご本人からすれば「そうじゃない!」ってお叱りを受けるかもしれないけど。
彼女の記事をきちんと読むのには、ある意味体力が要る。読み進める毎に、自分に突きつけられる「自分自身の弱さ」が浮き彫りになるから。
五十路を超えたのに、その当時まだ20代前半の人が書いた文章に、動揺しっ放しだ。
その頃。自分が20代前半の頃。
きっと、フワフワして、なんにも考えず、突きつけられる事実と現実に、目を背けていたんだな、というコトが、如実に分かる。
まだ、半分も読みきれていないけれど。
片手間では読みたくない。
時間を作って、ゆっくり租借しながら、読みたいと思う。
この人はきっと。
これからもずっと、「自分」ととことん向かい合い続けるのだろう。
彼女は、「自分は歪んでいる」と言った。
僕もまた、歪んでいる。
彼女はその時、23歳。
僕は・・・もう52だ。
今からでも、その歪みは戻すコトができるだろうか。
「strings」 松本佳奈
かつて23歳の彼女はこんなコトを書いていた。
「46歳の私は、どんな歌を歌っているんだろう?」
でき得るならば。
杖をついても。
その歌を聴いてみたい。^ ^