島唄 | yukkiのFUN!FUN!MUSIC♪

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こんにちは。



今日は終戦記念日ですね。さっき高校野球の倉敷商業対松阪のゲームを見ている途中、12時の黙祷の時間に、僕も黙祷を捧げさせてもらいました。

今、こうしている間にも、戦争が起きている国・地域がありますね。シリアでは政府軍と反政府軍の戦闘が激化していると聞きます。どうして人々は諍いを起こし、傷つけあい、命の奪い合いを続けるんでしょう。もちろんそこには軍人だけではなく、なんの武器も持たない民間人の命も含まれます。そして、奪われる命は遥かに民間人の方が多いですよね。なんとも・・・やりきれません。


第2次世界大戦。日本が連合国軍に敗れた戦いです。日本は敗色濃厚になった後も、国民になんら正確な情報を与えず、いたずらに被害を拡大させ、多くの尊い犠牲を出しました。殊にもっとも酷い戦いになったのは、沖縄本島に上陸したアメリカ軍との凄絶な戦いでした。

犠牲になった尊い命は20万余人を数えます。そしてこの亡くなられた方々のうち、沖縄出身者は12万人。そしてなんとその内の10万人弱が民間人だったんです。アメリカ軍の犠牲者が約1万人余りだった事を考えれば、沖縄戦が日本にとって・・・いえ。沖縄に在住されていた方々にとって、どれだけ厳しい、絶望的な戦いであったかがわかります。

兵力が圧倒的に不足していた日本は、ついに旧制中学校からの学徒動員、さらには旧制女子中学からも衛生兵としてひめゆり・白梅学徒隊などを動員します。ところが敗色濃厚とみるや日本軍は、彼女達にいきなり解散を命じ撤退を開始します。なんの武器もなくいきなり放り出された彼女達の後の悲劇は皆さんもご存知の事と思います。

この劣勢による撤退には、常に民間人をおきざりにするという非道な行いがついて回りました。そのあまりにも民間人の命を軽視する軍の軽率な行動で、果たしてどれだけの尊い命が奪われたか・・・


しかし、そんな絶望的な状況下にあっても、後の沖縄の事を真摯に考え、最後まで防衛線に残り続け、命を散らせた軍人がいます。海軍部隊司令官の大田実少将(後に中将へ特進)です。米軍に取り囲まれ、退路を絶たれた大田少将は、6月、自決を前に海軍次官に宛てて電文を書いています。

有名な「沖縄県民斯ク戦ヘリ」と呼ばれる文章です。原文では読むのが難しいんです。なのでここでは現代語訳をご紹介したいと思います。


「沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。

沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。

しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。

どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。

看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。

さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。

つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。

食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。

沖縄県民はこのように戦い抜いた。

県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする」



この大田少将の命を賭した願いも虚しく、「沖縄県民への後日の特別のご高配」は、日本の降伏により沖縄はアメリカの統治下におかれた為、叶う事はありませんでした。


戦争は醜い。命の奪い合いは新たな憎しみや憎悪しか生みません。こんな愚かな事をいつまでも続けている人間とは、どれほど程度が低い生き物なんでしょうか?

少なくとも唯一の被爆国であり、そして敗戦国である日本は、その戦争の一番惨い部分を経験している筈。絶対に同じ過ちを繰り返さない。今日という日は、それを強く再認識すべき日だと思います。




THE BOOMの「島唄」という曲があります。皆さんもよくご存知の曲かと思います。聴いた当初、このバンドは沖縄出身なのかと思っていましたが、実は東京の方々なんですよね。

この曲の歌詞には、秘められたもう一つの意味があったんですね。僕は知りませんでした。作者である宮沢さんは、後にこう語られています。

「沖縄戦があったことは知っていたが、集団自決やひめゆり学徒隊などのことを知らなかった。その無知だったことに対する怒りや、当時の軍事下の教育に対する疑問みたいなもので怒りがこみ上げて、地下のガマに残っている皆さんの魂を空に解放したいなみたいな思いがあって、東京で『島唄』を作った」






「島唄」 THE BOOM


でいごの花が咲き
風を呼び 嵐が来た
災厄を告げるという でいごの花が咲き、
沖縄本島に米軍が上陸した

でいごが咲き乱れ
風を呼び 嵐が来た
繰り返す哀しみは 
島渡る 波のよう
でいごが咲き乱れる4月から6月に、
寄せ引く波の様に、殺戮は繰り返された

ウージぬ森で あなたと出会い
ウージぬ下で 千代にさよなら
サトウキビ畑であなたと出会い
(ガマ)鍾乳穴の防空壕で
君が代にいう永久の御代との別れ

島唄よ 風にのり
鳥と共に 海を渡れ
島唄よ 風にのり 
届けておくれ わたしぬ涙
死人の魂(鳥)と共に 海を渡れ
島唄よ 風にのり 
本土に伝えておくれ、沖縄の悲哀を

でいごの花も散り
さざ波が揺れるだけ
ささやかな幸せは 
うたかたぬ波の花
でいごの花も散る6月末に
戦闘も終わり、宝より大切な命が散り、
生き残っている者もあまりいない
日常生活は、簡単に消え去った

ウージぬ森で 歌った友よ
ウージぬ下で 八千代ぬ別れ
さとうきび畑で謡いあったあの人は
防空壕の中で、戦闘によって死んだ

島唄よ 風に乗り
鳥とともに 海を渡れ
島唄よ 風に乗り
届けておくれ 私の愛を
沖縄の思いよ、風に乗って
魂と共に、海を越えて
(あの人の居るニライ・カナイへ)
島唄よ 風に乗り
(ニライカナイへ)届けておくれ 私の愛を

海よ
宇宙よ
神よ
いのちよ
このまま永遠に夕凪を
海よ
宇宙よ
神よ(豊穣をもたらす
いのちよ(何物にも代え難い命という宝よ)
このまま永遠に夕凪(平和)を(祈る)

島唄よ 風にのり
鳥と共に 海を渡れ
島唄よ 風にのり 
届けておくれ わたしぬ涙
死人の魂(鳥)と共に 海を渡れ
島唄よ 風にのり 
本土に伝えておくれ、沖縄の悲哀を

島唄よ 風に乗り
鳥とともに 海を渡れ
島唄よ 風に乗り
届けておくれ 私の愛を
沖縄の思いよ、風に乗って
魂と共に、海を越えて
(あの人の居るニライ・カナイへ)
島唄よ 風に乗り
(ニライカナイへ)届けておくれ 私の愛を



※ニライカナイとは、豊穣や生命の源である理想郷の事を指します。また生者の魂はニライカナイから来て、死者の魂はニライカナイに還ると言われています。



今に至っても沖縄には、大田少将が命を賭して願った「沖縄県民への後日の特別のご高配」がなされていません。それどころかいまだに基地問題を押し付けられ、アメリカ兵による婦女暴行や強盗・ひき逃げなどの犯罪行為が後を絶ちません。

国会議員とかいう名前の愚か者達に、聴かせてやりたいです。何度でも。何度でも。



多くの犠牲になられた方々の尊い命の上に、僕らは生かされています。今日はその事をしっかりと胸に刻んで、静かに過ごしたいと思います。

慎んでご冥福をお祈りいたします。