なぜ中学受験をしようと思ったのか?

の続きです。

 

上の子は「同級生と同じ中学に行きたくない」というネガティブな理由から

 

 

 

下の子は「僕も毎日楽しくなるような学校を探してみたい」というポジティブな理由から

 

 

 

でした。

そして親編です。

 

 

なんで私は子供たちに中学受験をさせたかったのか??

 

この3日間くらい考えていたんですが、よくまとまらないので、書きながら整理してみようと思います。
いろいろ思いつくけれど、結局この2つに集約されそう
 
1 投資対効果が最も高そうだから
2 お祭りみたいで楽しそうだから
 

 

 投資対効果という視点での中学受験

 

「投資対効果」と言っても、「少ないお金でよい学歴を得ること」といういわゆる「コスパのよい」教育という意味とはちょっと違います。
 
私にとっての投資とは「お金と時間」です。
お金に時間が加わるくらいで、一般的な考え方かな? と思います。当たり前ですが、教育に使えるお金は限られているし、自分が子供に使える時間も有限です。この限られた二つのリソースを、いつどんな風に投入すれば、私が思い描く効果を最大化できるだろうか?ということを、考えながら子育てをしてきました。
 
次に「投資対効果」の「効果」について。
効果という言葉にまとめてしまうと、学歴とかわかりやすい指標を思い浮かべがちなんですが、究極的には「幸せな人生を送ってほしい」ということで、「幸せな人生」ってなんだろう?と思った時に、私にとっては「信頼できる絆で結ばれた人たちに囲まれていること」でした。そしてその絆は「家族・友人・恩師」から構成されるんだろうな〜と。
 
そして「信頼」のベースになるのは、信条とか大切にしているベースの価値観が似ている同質性の高い集団で苦楽を共に積み重ねることで深まるものだと考えています。ベースの価値観が全く違う人と苦楽を共にしても、リスペクトはできても絆は深まらないし、多様性や多様な価値観を許容するためには、自分の中に同質性の高い絆で結ばれた確固たる基盤があってこそと考えています。
 
なんだか、小難しくなってしまいました泣
考えていると、こうやってドツボにはまっちゃう。
私が子供たちの教育環境を整えることで、得たい効果は、いろいろ考えたんですが、結局のところ
 
① 生涯の友人や恩師
② 精神的なしなやかさ(レジリエンス)
③ 知的好奇心
 
に集約されそうです。
①の友人や恩師は、幸せな人生のための重要構成要素で、これは小学校受験で大学まで同じ一貫校に通うのが一番有利になりそうな項目です。
 
②の精神的なしなやかさ、いわゆる「レジリエンス」は、高い方が、生きやすいだろうな〜と。ストレスって自分の捉え方次第でもあるし、どんなストレスに自分は弱いのか、ストレスが高まると自分はどうなるのかというのを人生の早いうちで知っておくことは、しなやかに生きていくのにとても有用だな〜と大人になってから痛感しました。子供たちには早いうちに精神的にしなやかに生きる術を身に付けさせてあげたく。でもそのためには、それなりのストレス経験「自分から何かに本気で死ぬ気で取り組むこと」というのが必須条件になってきます。別に受験でなくても何か夢中になれるものがあればいいんだけれど、そんなものは我が子たちにはなかったので、受験を通して身につけるのがよい機会だな〜と。
 
中学・高校・大学受験のどこがいいかな?と考えると、中学受験は全落ちしても進学できる中学校もあるし、仲間もいれば、生活を支えてくれる親もいるというセーフティネットが何重にもある、そして失敗してもやり直すことのできる機会が一番多くなる!から、中学受験がよさそうだな〜くらいに思っていました。
 
③の知的好奇心は、私の価値観と同じだといいな〜という理由からです。これはどの時点からでもOKそうです。

 

いろいろ考えてみても、私が得たい効果を得るには、中学校以上の受験だったら、どのタイミングでも良さそうです。あとは親の介入力が最大化するのはどこなのか?と考えると

 

 
高校受験は思春期に差し掛かっていて、親の言うことなど聞かないだろうから、親が介入しても、価値観を刷り込むにはなかなかバトルが発生しそう
 
大学受験は、もう思春期や反抗期も終わっているだろうから、親の言うことはある程度聞く耳は持ってくれるだろうけれど、自分なりのスタイルがそれなりに出来上がっているのではないか?
 
やっぱり中学受験だと、まだ幼い分、親のコントロール力が効きやすい、つまり介入力に対する効果が高いのではないか、と思いました。そして、中学である一定程度の環境を整えることができれば、大学受験まで6年間という時間的猶予を得ることもできる。中学生以上になると、親の言葉は鬱陶しいもので、同じ言葉でも友人や先輩の言葉の方が心に響くだろうから、「自走」が可能かもしれない。中学受験の最後の1~2年さえ伴走を頑張れば、その後の6年間はお金さえ出してあげればいいというフリータイムが得られるかもしれない。
 
そんなこんなを考え、親の介入力が最大化できるのは、思春期入口の10~12歳であると思うように至りました。子供たちが受験期にさしかかる小学校高学年から6年間くらいは、子供たちに私の時間的リソースを振りたかったので、小学校受験は考えず、保育園と実家の母の助けを最大限に借りて、仕事にリソースを集中させ、上の子が小学校に入る前に、残業手当のない職種へ。以降10年間は、ほとんど昇給もなく、ゆるっとぬるっと、忙しすぎる仕事や難易度が高すぎてストレスがたまる仕事はなるべく上手に交わしながら、「3=期待通り」の普通評価が得られるくらいのリソース投入量で、働いてきています。私は今の仕事内容、仕事量、自由度で1,100万円を本職でもらえれば、十分満足です。仕事に自分のリソースを振るより、趣味や副業にも自分のリソースを使いたいと思っています。
 
 
なんか、長くなってしまいましたが、結局は、
 
私の価値観を子供に植え付けるには、思春期前または前半の中学受験を活用するのが最適 と思ったからというのが一番の理由なのかな?と思います。
 
他にも、自分自身が私立に行きたかったのに、(ちゃんと特待で合格したのに)父親の反対で行かせてもらなかったというのも、動機としてあることはあります。とはいえ、そんなことよりも、やっぱり私と同じような価値観を持って生きていってほしいというエゴが一番の動機だったように思います。
 
頭の中で考えてもまとまらないし、文章にしてもやっぱり固いな。。。
おもしろくないあせる
 
自分がやりたい教育目標を実現させるために、中学受験という機会を活用した
 
というのが一番の動機なのかもしれません。
 
あとは、冒頭にも書きましたが、
 
なんだか楽しそう
 
というのも大きな理由です。
中学受験用の教材そのものも、子供たちと会話するのが、とても楽しいものだったし、いっしょに乗り越えた仲間もいたし、やっぱり楽しいことや幸せなことには、つらいことや苦しいことがあってこそだから、と思えます。
 
そして、学校見学へといくわけですが、それはそれは東京には、本当にすばらしい学校がたくさんあり、ますます中受沼へと足を踏み入れていったのでした。
 
我が家は二人とも第一志望に合格できたというポジティブな結果だったからかもしれませんが、辛いことも含めてとてもよい時間でした。子供たちの未来の可能性を広げてくれただけでなく、私自身も中学受験の真剣勝負を通じて、素敵な人に出会い、支え合える大切な友人を得ることができた、人生の貴重な貴重な一幕だったと思います。それもこれも、気が狂うほどお互い真剣だったから、だと思います。
 
 
こんな駄文を読んでいただきありがとうございます。
スペースでは、もう少し軽やかに、おもしろく話せるようにしたいと思います。
しばらくしたら、限定記事にしま〜す。