運慶の人物像 大河ドラマでの描かれ方について | == 肖蟲軒雑記 ==

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『鎌倉殿の13人』、第44回「審判の日」はなかなか見応えのあるストーリーだったが、私が最も興味をひかれたのは、冒頭に登場した運慶(演:相島一之)と彼の作である大倉薬師堂十二神将のうち戌神像の描写であった。

 

どなたかのツイートで流れてきたトークショーで話された内容によれば、ドラマに登場した戌神像は大倉薬師堂の後身である覚園寺の像と辻薬師堂(現在鎌倉国宝館収蔵)の像(どちらも紀行で紹介されていた)のハイブリッドとのことだ。見たことのあるような、ないような、それでいて迫力のある像の姿だと感じたのはそういうわけだったのか、と得心したのだが、後になって確認しようと探してもそのツーイトは見つからない。天啓か何かだったのだろうか?


それはともかく、この場面での運慶のセリフがなかなか良い。
「オレが絵を描いて、造るのは弟子たち。それがオレのやり方」
「早くできた方が喜ばれる。オレも早く次の仕事に取り掛かれる」
こんにち、運慶工房と呼ばれる造像のあり方をうまく表現しているのだが、ちょっと待ってもらいたい。リーダー格の仏師(=大仏師)の下で弟子ともいうべき小仏師たちが像を造るという分業制は、寄木造りを完成させた平安時代の定朝(宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像が有名な作品)から始まっているのだから、運慶のオリジナルではないのだ。
ここは「大仏師であるオレが絵を描いて、造るのは小仏師たち。それが仏師の伝統なのだ」と言わなくてはいけないところである。こう書くと、歴史を齧った人間がドラマにケチをつけているだけにも見えるがそうではない。私には、本作で描かれている運慶の人物像とよくマッチしていると感じるのだ。一つの解釈としてアリだろうと思うのである。

以下、以前の記事でもご紹介した本作の仏教美術監修塩澤寛樹氏の論文や著作に導かれながらの、運慶の人物像を考えてみたい。

本作の運慶は身分差をわきまえない、尊大とも見える描かれ方をしている。願成就院での造像の回(というよりも八重さんの悲劇の回)でも、施主である時政にも義時にも歯に衣着せぬ話し方で接していた。この描写、実は根拠がある。
この回の紀行でも紹介された、願成就院の像の胎内から見つかった五輪塔形銘札の銘をみてみよう。
表には宝篋印陀羅尼経という経典が梵字で描かれているのだが、問題はその裏である。




 

日付(文治二年五月三日製作開始)とある下を見ていただきたい。巧師勾當(仏師のことである)運慶と檀越平朝臣時政(施主の北条時政のこと)の並びに注目すると、造像の費用を負担した注文者と注文を受けた仏師の順序が、一般的な書き方(注文者は上位なので先に書く、請者は下位なので後に書く)とは逆なのである。もちろん、こんな書き方、当の時政が見ているところで書いたのではなく、製作地(ドラマでも上方となっていた)で運慶が書かせたものとしか考えられない。今日でもこんな書き方をしたら施主には怒られるだろう。ましてや身分差の厳しいかの時代である。こっそりとではあるのだが、「オレ様が北条時政のために造ったのだ」という、尊大とも思える自負が見え隠れしていると思えるのである。

 

 

いわゆる「お水取り」が有名な東大寺二月堂で行われる「修二会」では、創建以来東大寺にゆかり深い人々の名が記された『東大寺上院修中過去帳』が読み上げられる。そこには、創建者聖武天皇をはじめとして、歴代の別当は言うまでもなく、鎌倉時代の復興に関わった後白河法皇、造営ノ大施主頼朝大将軍だけでなく康慶(運慶の父)、快慶、定覚と大仏殿内の巨像(盧舎那仏の脇侍と四天王像)を造立した仏師名も記されているのだが、そこに関わったことが確かな運慶の名がなぜか抜け落ちている。書き落としではなく、運慶と東大寺の間に何らかのトラブルがあったとも考えられる。どのようなトラブルか、実際にトラブルがあったのかもわからないが、もしトラブルだとすると、上述のような尊大とも思える銘の書き方を考え合わせると、高僧たちにとって傲慢に感じられるような接し方が発端だったのかもしれない。

どちらも推測の域を出ない話といえばそれまでであるが、このことを踏まえて見るとドラマの中のセリフ
「オレが絵を描いて、造るのは弟子たち。それがオレのやり方」
は、自信過剰のあまり、盛った表現で自らの仕事を語った運慶として、何となく腑に落ちるのである。

【参考文献】
[1] 塩澤寛樹 願成就院の造仏と運慶 金沢文庫研究(314), 1-18 (2005)
[2] 塩澤寛樹 大仏師運慶 : 工房と発願主そして「写実」とは 講談社 (2020)