長らく記事の更新を怠っておりましたが、健康を害したとか、もう飽きてしまったとか、そういうことではなく、ひたすら自分の身の回りの忙しさに引きずられていたに過ぎません。プレタイトルの英語化が止まった頃、地元大泉寺でのイベントお手伝いとして準備を始めたぷらタコり企画が思いの外好評で、大泉寺で何度もリピートすることになったのは望外の喜びでした。あわせて、長年地元の歴史を研究していらっしゃる人生の先達の方々から、「原の歴史について何か話してもらいたい」というご依頼を受けたのは良いのですが、私のストライクゾーンで原というとあまりないので、苦し紛れにまとめたのが「中世の原を通り過ぎた人々」というタイトルの講演でした。この準備も結構時間がかかってしまいました。
その中の話を今回は少しご紹介致したく存じます。
上記「中世の原を通り過ぎた人々」は三題噺のように3つの異なった題材を大河ドラマとムリやりこじつけつつご紹介しました。一つが「歌枕としての浮嶋ヶ原」です。ブログを始めたばかりの頃の記事でご紹介したように、当地は中世には浮嶋ヶ原と呼ばれる沼沢地でした。その記事でもご紹介しましたし、最近は拙い絵もお見せしたように、葦の生い茂る沼と富士山、それに海沿いの松原と風光明媚な地として歌枕になっていました。沼津市史の資料編を紐解くと、たくさんの和歌が詠まれていたことがわかります。その中から一首。浮嶋ヶ原を東から西に行く人によって詠まれたと伝えられている歌です。
歌枕の歌をご紹介すると言いつつも、中に浮嶋ヶ原は読み込まれていません。
冒頭にある雁(かり)は、秋に北より渡来して日本各地で越冬し春になるとまた北に戻る渡り鳥のうち、カモ目カモ科マガン属のマガンやカリガネなどの総称と考えられます。ここで詠まれている春の雁は、北へ帰る雁の群れということでしょう。ここに込められた作者の思いはあるのか、春の雁を手がかりに少し調べたところ古今和歌集にある伊勢という女流歌人の作が見つかりました。
この伊勢の歌の解説によれば、「花なき里に住み」とあるように、当時の人々は雁が帰る先の地は花の咲かない土地と信じられていたようです。花がなくなった頃に日本に渡ってきて、さあこれから花が咲き始める兆しである春霞が立つとそれを見捨てていくかのようだ。きっと彼らは花のない(味気ない)生活に馴れているからなのだろう。と伊勢は歌っています。
さて、前の歌は下の描写に続いて書かれています。
詠み手は目の前で起こった思いもかけない常ならざる出来事に驚くと共に、何もできずに鎌倉から京に帰るところだったそうです。そして、当地、駿河國浮嶋原、を過ぎた時に霞がかかった静かな空に雁の啼き声だけが聞こえてきた、見渡しても姿は見えない、その時心に浮かんだ気持ちを込めた歌だというのです。
彼が見た思いもかけない出来事とは何だったのでしょうか?読み解くカギは和歌にありそうです。初めの句「春の雁の」は次の「人」に続く言葉だと思います。花が咲き誇るのを避けるかのように北へ帰る雁と同じような人、花を避けるが如く去って行った人のことを、雁の鳴き声を聞いて再び思い出したのです。花はきっと約束されたはずの佳きこと。避けて去るというと俗世からの出家もあるでしょうが、読み手が出会ったのが思いもかけない無常を感じる出来事から考えて、むしろ突然の死がふさわしいのではないでしょうか。
歌の大意はこんな感じでしょう。
春の花を避けるように北に帰る雁のように、これからの佳きことを見ずに死んでいった人よ、そういう別れも世の常だとは思うが、あなたのことを思うと、京に帰る私は、あの雁が啼くように泣かずにはおれないのだ。
詠み手が死を悼んだ人は誰だったのでしょうか。そして、はからざる眼前の無常とはどういった出来事だったのでしょうか?
詠み手は時の左衛門督西園寺実氏、時は建保七年二月。前の月の末、鎌倉は大雪だったそうです。
歌の記載は『承久記 古活字本』より
参考文献
[1]新日本古典文学大系43 保元物語・平治物語・承久記 佐竹昭広ほか編(1992) 岩波書店
[2]新日本古典文学体系5 古今和歌集 佐竹昭広ほか編(1989) 岩波書店
[3]日本の文学 古典編 古今和歌集 市古貞次 編 (1986)ほるぷ出版
[4]沼津市史資料編 古代・中世 沼津市史編さん委員会 (1996) 沼津市
なお、春の雁についての私の解釈の着想は、ネット検索で行き当たったこちらのサイトの記述によります。
https://www.bou-tou.net/harugasumi/