【3 さまざまな地形】
さて、本編。各章ごとに東海道沿いの典型的な地形について述べられているが、あまり微に入り細に入りの説明は、本書の売り上げをかえって邪魔するだろうから(本心 めんどうだから)、簡単な解説に留める。
一章 旅立ち 京・近江
メインに取り上げる日記『都の別れ』と『春の深山路』の作者飛鳥井雅有についての紹介やこの時代の東海道についての概説が述べられている。
二章 乱流地帯をゆく 美濃
暴れ川として名高い木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の流れはどのようであったのか?著者は時代を追って流れが変わる要因として、明治濃尾地震の土地隆起・沈降データなどを援用して考察を展開している。なお、これは余談だが、現在の木曽三川の流れは、江戸時代中期に行われた宝暦治水(1754~1755:薩摩藩の財を枯渇させるために幕府が強要した土木工事)によって網目のように分流していた三つの川の流れが整理された結果である。
三章 湖畔にて 橋本
橋本とはなじみのない地名ではないだろうか。明応地震(1498)による大津波で一日にして壊滅したと言われている、現在の浜名湖西岸にあった大きな宿場町である。当時浜名湖は海岸線からかなり奥にある内陸湖だったのが、津波によって海とつながって現在に至っている、という歴史地震学会などで提唱されている通説に対して、著者は多数の日記を読み解くとともに地質学のデータとつきあわせて議論を展開し、説得力のある別の仮説を提示している。
四章 平野の風景 遠州平野・浮島が原
(後述)
五章 難所を越えて 天竜・大井・富士川、興津
川などの難所をどのように旅人は越えたのか。東海道五十三次では「越すに越されぬ大井川」であるが、鎌倉時代の渡河地点は江戸期のそれとはことなっており、なおかつ扇状地としていくつもの小さな支流にわかれていたため、それほど困難なく渡れたようである。
それに対して、清水~由比間、山越えなら薩埵峠だが、海沿いの道もあった。道といっても、本当に岩だらけの磯。序章同様引き潮待ちで通らなければならないのは言うまでもないが、
行客(こうかく)ココニタヘ、暫クヨセヒク波ノヒマヲ伺ヒテイソギ通ル
(えげつないとこでっせ。ほら、波いうもんは寄せたり引いたりしまっしゃろ?そのすき狙おて、私らこうぴゃーっと走り抜けるんですわ。ほんまになんぎしますわ)
というところなのである。鎌倉時代のお公家さんは結構たくましかったのだ。
六章 中世の交通路と宿
宿はもともと東国では軍営を意味する言葉であったらしい。鎌倉時代にあったモンゴルの侵略に対して、交通路が整備され要衝に置かれた馬の中継地の呼称として「宿」が選ばれたようである。もちろん商業・交易のポイントも「宿」にはなったが。
終章 中世東海道の終焉
江戸時代になり、私たちが知っている東海道が成立した。中世の道と大きく異なるのは、前にも述べた熱田以西である。この変更はどのような理由によるのか、徳川政権はどのようにかかわったのか、という考察が展開されている。
【4 浮島が原】
四章の平野の風景であるが、ここで例示されている浮島が原(静岡県富士市~沼津市)は、「富士の高嶺を厠より見る」我が家に最も近いところだ。少々思い入れが違うので、独立して紹介したい。
さて、四章では、砂州で海と仕切られた内海(もしくは潟湖)を利用した交通路が、日本各地に結構あったこと述べられている。現在分かり易い例を挙げるとすると、天橋立のような地形で海と仕切られた湖だろうか。このような内海は、外海と比べて波が穏やかなため、舟によって容易に往来できた。東海道沿いの元島(静岡県磐田市)の町遺跡からは、内海に面した湊町が交易で発展した様子をうかがえる数々の遺品が出土している。このような地形(とそれを利用した交通路・湊町)は日本海側にも数多くあったらしい。
さて、我が家の近くにあった「浮島が原」は、鎌倉時代にはどのような風景であったのか。本書の文章を手がかりに描画を試みた。Google-earthの画像を取り込んでトレースしただけのヘタクソな絵だが、雰囲気は伝わるだろうか?北西に富士を仰ぎ、右手前の愛鷹山と駿河湾の間に潟湖(沼)が拡がっている。海と潟湖を仕切っているのは(一番わかりにくいだろうが)松の生い茂る砂州である。これが絵の右方へ延々4kmは伸びている。
「ヘタクソでわからん」という方には、目をつぶって富士山を背景に東西数キロの巨大な天橋立が伸びている風景を思い浮かべて頂きたい。日本を代表する(と思う)二者がフュージョンしたような、美しい風景ではないだろうか?
この絵の右端あたりの愛鷹山麓には、伊勢宗瑞(北条早雲)の最初の居城、興国寺城があった。現在、沼津市教育委員会によって発掘が行われており、近い将来史跡公園として整備される予定のところである。文化財センターの方の話では、城趾の南側には、船着場の遺構が出土しているらしい。少なくとも城が機能していた時代までは湖もしくは沼であったことは間違いないと思う。
しかし、この風景は現在影も形もない。浮島が原では、本書には江戸時代に大々的に行われた新田開発によって潟湖が徐々に消滅していったと述べられている。実際、我が家の近くには○○新田という名称(字名)を残した自治会が数多くあり、地名から人々が耕地を増やしていったことが窺える。1600年頃には1,200万人程度だった日本の人口が、たった100年の間に2,500万人に増えた[※1]のは、「餓えと戦いの時代」であった戦国時代[※2]が徳川政権の誕生により幕を閉じることで、人々が食料生産に必須のインフラ整備を行う余裕ができたからである。しかし新田開発は潟湖を小さくさせていった。このように風景は人の生活の充実とともに変わってしまったのである。
【最後に】
本書では、冒頭でも述べたように過去の風景や旅の様子を、様々な学問的切り口で再現されている。詳しくは手にとって読み、風景を思い描いて頂きたい。飛鳥井雅有が旅した時代から800年。彼らが目にした風景はもう残ってはいない。そして、その風景を取り戻すことは不可能であろう。しかし逆説的ではあるが、「取り戻すことができないものだからこそ美しい」とも言えるのではないだろうか。
(※1)鬼頭宏著「図説人口で見る日本史 縄文時代から近未来社会まで」PHP
(※2)黒田基樹著「百姓から見た戦国大名」ちくま新書
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