甲斐國放光寺の仁王さま 木の仏さま 『鎌倉殿の13人』放送記念 特別編 | == 肖蟲軒雑記 ==

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ツボに籠もっているタコが、「知っていても知らなくてもどっちでも良いけど、どちからというと知っていてもしょうもないこと」を書き散らすブログです

ワイン賞味は連れ合いと私の数少ない共通の趣味である。このところはCovid-19感染状況により通信販売で購入することが多くなっているが、それでも状況が良い時には日帰りの山梨旅行でいくつかのワイナリーを巡っている。

必ず訪問する贔屓のワイナリーの一つに、ご夫婦による家族経営の機山洋酒がある。昔からある農家の敷地の一角に写真のショップがある。

 

 

 

中に入るとレジカウンター(試飲もできるが現在は中止)の反対側はこのような洒落た雰囲気のレイアウトになっている。

 

 

 

テーブルの上にあるのは地域でのイベント紹介のパンフレットや街巡りのマップなどであり、面白い情報を教えていただいたこともある。ワインの種類はそれほど多くないが、価格はお手頃で、どれもとても飲みやすく美味しい。このワイナリーのある地は塩山といい、北に10分ほど歩くと武田信玄の菩提寺である恵林寺がある。


もっとも、今回の話題は恵林寺ではなく、さらにその北500mぐらいのところにある高橋山放光寺だ。
この寺院は、もともと別のところにあったものを元暦元年(1184)に甲斐源氏の将安田義定によって現在の場所に移されたものが始まりとされている。安田義定は(いまのところ)『鎌倉殿の13人』には登場していないが、武田信義(八嶋智人)の弟であり、甲斐東部の笛吹川流域を支配していた。富士川の合戦以降、彼は遠江に拠点を置き、寿永二年(1183)の義仲挙兵に呼応して上洛するものの、頼朝が義仲討伐の軍を上げると義経の軍勢に加わった。福原の平家軍攻撃(いわゆる一ノ谷の戦い)に際しては義経の搦手軍に属して平家の諸将を討ち取る手柄を挙げたという。

なお、その後のことはドラマで描かれるのを期待しつつ、ネタバレになる可能性もあるので自粛。

 

 

仁王像の特徴
 寺院創建にあたり、本尊は最初の寺院から移されたようであり、現存する国指定重要文化財の愛染明王坐像などに平安後期の作風が残されている。今回ご紹介するのは、寺院創建(というよりは発展的再建?)に際して、安田義定が造像を依頼した山門を守る仁王像(これも国指定重要文化財)である。

 

 

放光寺の山門

 

向かって右の阿形像

 

向かって左の吽形像
 

 

なかなか特徴的な仁王像だと感じるのだが、どう思われるだろうか?以下、鈴木麻里子氏の論文に導かれてご紹介するが、像の全体的なプロポーションは頭でっかちな平安時代のものよりも成人の体型になっている点や、怒りの表情にもリアリティがあるところなど鎌倉時代の作風を思わせるものがある一方、裙(タイトスカート)の表現などが鎌倉期の作品(例えば有名な東大寺南大門の像)に比べるといささかアバウトであり、過渡期の作と位置付けることができるとのことだ。

 

他に例がほとんど見られない造形として髷の結い形が挙げられるそうである。たいてい禿頭で表現される仁王像の場合、髷は側頭部に残った頭髪を結い上げる形で表されるが、両像とも写真の矢印で示すように鬢(もみあげ)を伸ばして結い上げるという一風変わった表現をしている。新しい形の造像を模索した結果とも受け取ることができそうだ。

 

阿形像頭部拡大

 

吽形像東部拡大

 

作者は、江戸期に著されたので若干割り引いてみなくてはならない面もあるが、寺伝『当山檀興大願主惟肖記』によれば、頼朝が父義朝の菩提を弔うべく発願した勝長寿院(10年前の大河ドラマ『平清盛』の冒頭に柱を立てている場面がある)の本尊阿弥陀如来像の造像を頼朝から任された南京大仏師成朝に義定が依頼したものだそうである。成朝の勝長寿院造像については『吾妻鏡』にもあることを考え合わせると納得できることと言えそうである。

 

 

成朝という仏師
 さて、この成朝とはどういう仏師なのだろうか?以下は、『鎌倉殿の13人』で仏教美術考証を担当されている塩澤寛樹氏の論文などに導かれての紹介である。勝長寿院(文治元年:1185、落慶法要)が長年の歴史の中で失われてしまった今、彼のものだとわかる遺品はほとんどない(この仁王像が例とも言える)が、文書に残されている記述からは、藤原全盛期に仏像の造り方を完成させた巨匠定朝の直系の子孫であることがわかる。

 

 

 

定朝の孫にあたる院助と彼の曽祖父頼助との関係にはどちらが長男なのか議論の余地があるとのことだが、『吾妻鏡』にある彼の言上を見ると、少なくとも本人の主観としては定朝の嫡流という認識を持っていたということになる。こんにち遺品が数多くある運慶やその父康慶は、当時の彼から見て傍系だったことになる。

 

 

 ドラマの中でも描かれているが、頼朝(大泉洋)は源氏の嫡流であるという意識が極めて強かった。義仲(青木崇高)にもおそらく嫡流の意識(その父義賢は一時期為義によって嫡子とされていたが、義朝がそれを奪った)があるということがドラマの中で後白河法皇の前での発言でわかるし、甲斐源氏武田信義にも源氏の嫡流という意識があったことも描かれている。両者とも頼朝により滅ぼされるか屈服させられるかも描かれていた。塩澤氏によれば、嫡流として競争相手を排除してきた頼朝が、自身初めての寺院建立に際して、造像担当者として成朝を選んだのは、彼が嫡流だからという考えがあったからとのことである。

 

頼朝は自分の権威を表す寺院の仏像には、自分と同じ嫡流の仏師こそふさわしいと思った、ということもできそうである。

ここで、安田義定の心中を推測してみよう。彼は頼朝に屈服させられた信義の弟である。兄を不甲斐ないと思ったかはわからないが、自身の寺院創建に際して、成朝に仁王像造像を依頼したというのは、頼朝に対する対抗意識の表れだったように思われる。以下は私の妄想に過ぎないが、「頼朝殿、あなたが御本尊を依頼した成朝は、せいぜい私の寺院の仁王像を作るのがふさわしい仏師なのだ」とかなんとか。甲斐源氏の矜持の現れである。

 

 

願成就院の運慶作仏像について
一般に理解されている運慶の東国での造像は、彼が鎌倉幕府と積極的にかかわったからである、というものである。その端緒は勝長寿院落慶の翌年(文治二年:1185)にはじまった願成就院の造像である。願主は北条時政(坂東彌十郎)。時政は、仏像制作を依頼するにあたって、かなり頼朝に気を遣ったのではないか、というのが塩澤氏の推測である。仏師選定であっても、頼朝と並ぼうとするように見られれば、自身の身は危ういだろう。そこで、同じ門下であるが傍系の仏師を考えた。弟弟子と思われる康慶はすでに成朝に先んじて僧綱位を受けていたのでやはりマズイ。そうなると、当時はあまり名の知られていなかっただろう、その子運慶が選ばれたというのである。『鎌倉殿の13人』の時政には、そういう雰囲気がありそうな気がする。

 

この見方が、運慶の遺作が数多く残されている今では、なんとなく信じがたくなるのもわからないではないが、当時の状況を考えると極めて理にかなっていると思わざるを得ない。今回の大河ドラマでは運慶(相島一之)も初めて登場することがアナウンスされた。公式Twitterの紹介によれば、北条氏のために造像したとあることから、描かれ方がどうなるのか今から楽しみである。

 

 

 

 

 

さいごに
その後の成朝は、建久五年(1194)に興福寺中金堂造像の功により法橋位に叙せられたことを最後に歴史の舞台から消えてしまった。遺品もほとんどないと言って良い。それに対して、時政が造像を依頼した時点では傍系だった運慶は一世を風靡し、今日でも多くのファンがいることは周知の通りである。なんとなくではあるが、頼朝とその子たちと北条氏の歴史とオーバーラップするように見えるのは、多分私の気のせいなのだろう。

【参考文献】
[1] 鈴木麻里子 山梨・放光寺仁王像について 仏教芸術(245) 72-86 (1999)
[2] 塩澤寛樹 成朝、運慶と源頼朝 日本橋学館大学紀要(3) 1-14 (2004)
[3] 塩澤寛樹 願成就院の造仏と運慶 金沢文庫研究(314), 1-18 (2005)
[4] 塩澤寛樹 大仏師運慶 : 工房と発願主そして「写実」とは 講談社 (2020)