葛山家のお守りから妄想する、彼の時代の日常 | == 肖蟲軒雑記 ==

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ツボに籠もっているタコが、「知っていても知らなくてもどっちでも良いけど、どちからというと知っていてもしょうもないこと」を書き散らすブログです

愚かにも、年を一年間違えて記事を書いていることに気づきました。

その部分と関連する内容を修正して、改めてアップします。

 

 大河ドラマ『おんな城主 直虎』では、直虎が井伊の後見になったという永禄八年(1565が、じっくりと数回かけて(見方によってはダラダラとかもしれないが)描かれた。昨日の放送は明けて永禄九年の秋以降であろう。

 さて、この永禄九年という年には、葛山氏元の家族に関する面白い文書が京は吉田神社の神主、卜部(吉田)兼右の日記に残っている。

 

 

 

(大意)

十月五日(この年壬辰(みずのえたつ)が五日なのは十月しかない)、駿河の葛山の奥方より、目録とともにお守りの依頼があったので、(作って)お送りした。

氏元殿47歳、おちよ殿41歳、松千世殿17歳、はやち殿22歳、おふち殿14歳、竹千世殿11歳、久千世殿6歳。

加えて(遣いの)卯蔵にも一つ作り渡した。

兼右卿記より

 

 お守りという咒のためには実名と年齢が必要なのだろう。まめな記録を書いた吉田兼右と、お守りを所望した葛山氏元の室おちよのおかげで、家族構成がかなり詳しく伝わっている貴重な記録と言える。

 

 この時点で、氏元には、全て正室おちよ北条氏康の妹)の子かどうかはわからないものの、三男二女がいた。

 一番上が22歳のはやち(多分「疾風」:富士山から吹く冬の風強い日に生まれたのかもしれない)、彼女はこの時既に今川の一門である瀬名氏詮に嫁いでいたのかもしれないが、そうだとしても、母として嫁いだ娘への贈り物だったと自然に理解できそうだ。

 

 男子3名は、いずれも千世がつく名である。「松」や「竹」は常緑の植物ということで、「久」と同様、いつまでも長生きして欲しいという親の願いが込められた名前と見ることもできる(良くある名でもあるが)。長男の松千世17歳、元服を控えていたのだろうか?

 そして、次女のおふち(多分「お藤」:そうであれば藤の花が美しく咲く初夏に生まれた娘かもしれない)。彼女はこのお守りが作られた何年か後、武田信玄の六男信貞と結婚し、信貞葛山の家督を継ぐことになる。

 男子である松千世竹千世久千世3人は歴史から消えてしまったということだ。病死、あるいは、この後の武田信玄の駿河侵攻に際しての戦か何かで、お守りを作らせた親の願いも虚しく皆死んでしまった、ということかもしれない。

 

 また葛山家家人の卯蔵は、この時36歳か48歳だったのではないだろうか。名前に「卯」がつくことから卯年生まれと考え、永禄九年は丙寅(ひのえとら)ということからの推察である。若い家人では京の由緒ある神社への遣いには不向き、老いていては長旅が大変だったのではないか、という理由で24歳と60歳以上を消去しているに過ぎないが…

 

 

 さて、氏元夫人、おちよはなぜこの時に家族のお守りを京の神社にまで所望したのだろうか。もちろん、記録には残っていないような慣例だった可能性が最も高いのかもしれないが、私としては永禄九年(1566)という年の、しかも十月ということに着目したい。もっとも、おちよがお守りを求めて、卯蔵を京に遣わしたのは十月五日よりも少し前であろう。九月下旬ぐらいだろうか。

 

 本年の大河ドラマでも簡単にではあるが描かれている武田義信の幽閉は、永禄八年十月の出来事である。ドラマでは突然起こったように描かれているが、30年近く前の『武田信玄』では、重臣飯富虎昌を巻き込んだ謀叛が描かれていた。実際にどのようなことがあったのかは分からないが、幽閉に先立って今川との同盟関係を巡って甲斐では相当不穏な動きがあったと考えるのが自然だろう。

 氏元には、一族の御宿友綱(信玄の侍医だったらしい)などのチャネルを通して、こういった情報を逐次入手しながら今後の情勢をあれこれ考え、ことによったら『真田丸』の真田昌幸の如く「面白いことになってきた」と不穏当な画策を描きだしたのかもしれない。あるいは、今川の将来を考えてある決断に到った時期なのかもしれない。いずれにしても、おちよはそのような夫の振る舞いを敏感に察知して、「家族皆、安らかであれ」と特別に願うため、京に遣いしてまでお守りを求めさせたということもありそうである。

 

 

 名前に込められた親の願いやお守りを所望するという、言ってみれば戦のない日常、がこの時代には確実にあった。

 古い様式美のドラマが好きな方々だけではないかもしれないが、不評のような今『おんな城主 直虎』であるが、かつては「××が跡目を継ぎ、△△領内は落ち着いたかに見えた。そして○年間は瞬く間に過ぎ去った。つかの間の平和だったのである」というようにナレーションでしか語ることのできなかった、戦のない日常を丁寧に描いているのだと思う。そして、そういう日常を描いてこそ、戦と謀略という非日常の猛々しさと暴力性は生き生きと描かれるのではないだろうか。

 それは楽しみでもあり、正視できないかもしれないという怖れでもある。

 

【参考文献】

小山町史 (1996) 14章「戦国時代の葛山氏」池上裕子

裾野市史(2000)第2編中世第3章「戦国の動乱と葛山氏」有光友學

静岡県史資料編7中世3 (1994


下線部:書き換えた箇所