葛山による永禄十年の塩止め | == 肖蟲軒雑記 ==

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ツボに籠もっているタコが、「知っていても知らなくてもどっちでも良いけど、どちからというと知っていてもしょうもないこと」を書き散らすブログです

 静岡県御殿場市。東名高速道路に沿った箱根山地の麓には、北からプレミアムアウトレット、東山旧岸邸、秩父宮記念公園と観光名所が並んでいる。どれも御殿場ICの近くだが、最も南にある秩父宮記念公園近くにあるのは結構古い二岡神社である。

 このあたりから御殿場の駅前市街地や市役所(北西方向)に向かうと萩原とか茱萸沢(ぐみさわ)といった地名が今日も残っている。この萩原にある芹澤家には戦国時代の文書がいくつか伝わっており、「静岡県史資料編7中世三」で紹介されている。

 芹澤玄蕃尉(文書によっては玄蕃助、玄蕃允とも)や芹澤伊賀守宛てに、このブログではお馴染み(?)になっている葛山氏元が発給した文書が大部分なのだが、今回は『おんな城主 直虎』の第24回の冒頭で語られた今川による甲斐への経済制裁(塩止め)に関する文書を紹介したい。

 

 

 

上記画像の中にある赤い六角形は、氏元の印判(万歳)を表している。花押の代わりに印判を捺してあるものだ。

 余談だが、花押のある判物と印判状との発給のされかたを大名毎に解析し、東国と西国の大名の政治形態を比較した「中世の中に生まれた近世」(講談社学術文庫:山室恭子)は、なかなか面白い内容だ。

 

大意

古澤の市に来る商人で、茱萸沢、二岡(神社)前、萩原の者を除いては、(関所を)通過する際に、馬の荷物を査察し押収すること。

 

時期的に永禄十年(1567)なので、塩止めの時期ということになるが、これだけでは断定は難しい。

 

ところが、この文書が発給されてから半月後に第2の文書が芹澤玄蕃を含む3名に対して出されている。

 

 

 

画像中、シミのように描かれているのは資料編では□として表される判読出来なかった箇所である。虫喰い穴が開いていたという方が正しいのかもしれない。史料編では、前のところは「月」らしい、後ろの部分は「殿」だろうと、それぞれ推測している。

 

大意

前に出した関銭についての命令書について、今月はいつもよりしっかりと(徴収)しているそうではないか。三人ですぐに納めなさい。また、塩荷を押収した件については、今日までの分を納めることができるよう小者秋若を(この文書とともに)遣わしたので(彼に渡しなさい)。

 

ここで塩荷を留めるとあるのだから、前の文書で「押さえて取れ」と命じているのは塩に違いないだろう。

 

 御殿場インターから国道138号で北西に向かえば須走から東富士五湖道路となり、富士吉田や河口湖、そして都留はすぐそこである。また、東名高速で東上すれば、すぐに神奈川県だ。当時も古澤というところあたりは北西には籠坂峠を越えて甲斐へ行く街道、北東へは足柄道(松田)を越えて相模へと向かう往還の交わる交易地だったということである。

 

この二つの文書からまず読み取ることができるのは、少なくともこの時期、葛山氏元は今川の命に従って塩止めを実行していたということである。

 

 

 だが、それだけではないのかもしれない。以下は私の想像に過ぎないが、最初の文書にある地元商人と思われる者の例外規定が気になる。ドラマでも「裏でこっそりと塩の取引をしている」とあるように、地元の商人にワンクッションをおくことで、ソルトロンダリングでもしていたとも取ることができそうだ。あるいは、葛山は沼津口野という港を押さえているので、地元商人達は直接塩を買い付けることができたということもあり得る。

 

 葛山氏元は、この翌年の駿河侵攻に際して武田側につくことになる。面従腹背はすでに始まっていたのかもしれない。

 

【参考文献】

「静岡県史 資料編7中世三」(1994

「日本史を学ぶための古文書・古記録訓読法」 苅米一志著 吉川弘文館(2015