自然と出来上がってしまっていると僕が考える、「構造」について、問題提起します。
スポーツとは、僕たちにとって、一体なんなんでしょうか?
そして、人間にとって、なんなんでしょうか?
スポーツをする人、観る人、興味ある人ない人、好きな人、嫌いな人、、、、多様化する社会の中で、スポーツは一体、人々にとってどんな意味を持つ?
スポーツ界のパワハラや体罰の問題が世に出る度、僕はそんなことを考えます。
日本のスポーツ界には、何故、いつまで経ってもこんな問題が蔓延るのか。
僕が思う問題点を、一つ提示したいと思います。
キャッチーな言葉で表現するならば、スポーツ業界は、
カルピスの原液
です。
純度が高すぎるんです。
説明します。
あくまで僕の、「考え」です。
スポーツを素晴らしいと語る人間は、スポーツができる人が多いと思います。
スポーツをしている人間は、なぜか、他の誰もがスポーツを素晴らしいと思っている傾向にあります。
運動部を素晴らしいと思う人間は、今もスポーツを楽しんでいます。
スポーツに携わる人間は、スポーツは、無条件で、みんなが好きで、みんなが素晴らしいと思っていて、スポーツを頑張る人間はみんなに応援されて、オリンピックもみんなが開催してほしいと思っていると錯覚しています。
自分が活躍してきたそばで、ベンチを温めてきた、ポカリを作ってくれた、試合に出させてもらえないのになぜかよく怒られてきた、部活なんか行きたくないけど、みんなが頑張ってるから、自分もなんとか頑張った、
そんな人たちの気持ちもわかっていないし、そんな人そもそもいないと思っているし、忘れています。
これを読んでいるスポーツができるあなたは、補欠だったメンバーと、今も連絡を取り合いますか?
そして、僕たちは、そんな人たちがスポーツから離れていっていることに、気づきもしません。
スポーツができてスポーツで進学して、スポーツができることが正義だと思っている人間は、スポーツ界には驚くほど多いと僕は正直思います。
ここまで説明してきたことからわかるかと思いますが、スポーツの業界は、スポーツ出来てきた人、スポーツで良い思いをしてきた人で構成されています。
それを僕は、カルピスの原液、と表現しました。
同じような境遇で、同じような感覚を持った人たちが、昔と同じように指導したり、スポーツしたりしていれば、問題が起こることは残念ながら自然な流れです。
一般社会であればいろんな畑の人間が協力して何かを創り上げていくと思いますが、残念ながらスポーツ界では、スポーツができる、できた人間が未だに幅を利かせているのではないでしょうか?
もちろんスポーツをしてる人間がみんなそうだとは言っていませんよ。
あくまでそういう構造にあると、僕は指摘しています。
そして、その繰り返しです。
どんどん濃いカルピスが熟成されていきます。
そして、人が多数派の意見が正しいと錯覚するのは、世の常です。
それがコミュニティで起こり始めると、いじめに繋がります。
スポーツ脳の人間ばかりのコミュニティで、もしもそうじゃない人間が正しいことを言っていても、そんな意見多数派に葬り去られて終わりどころか、その人は精神的苦痛を覚え、その場を去らざるを得なくなります。
いじめはそれ自体が問題ですが、そんなことを繰り返して、さらに濃いカルピスが出来上がるループもまた問題です。
僕は、スポーツに関わる全ての人が、このような問題に対してもう一度胸に手を当てて考えるべきだと思っています。
もちろん、僕もです。
きっと僕もどこかで間違えたり、人を傷つけていると思います。
常に自分を見つめ直していく必要があると、自覚しています。
ここまで説明した構造を今すぐ変えることはできませんが、一人一人が勉強をして、あらゆる考えを取り入れていけば、カルピスはちょうどいい濃さに薄まります。
スポーツは、本来もっと魅力的なもののはずです。
もちろんそれを押し付ける訳ではありません。
ただ、一つ言えるのは、僕たちの間違った感覚で、スポーツを楽しめたはずの人が、スポーツを楽しめないことはあってはならないことです。
僕にとって、あなたにとって、世界中の人にとって、スポーツって一体なんなんでしょうか?
一緒にもう一度考えてみませんか?