和歌山城マニアックツアー | おおとり駆の城日記

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子供の頃からお城好き 今までに巡ったお城の感想 その他どうでもいい趣味のことなどあれこれ綴っていきます

先週の土曜日、知り合いの城仲間(プロのイベンターさんではないです)が企画した和歌山城を歩く会に参加してきました。1月の彦根城に続いて2回目の参加です。


今回は、中井均先生(滋賀県立大学名誉教授)に加えて、お城・甲冑マニアで知られるラジオDJのクリス・グレンさん、名古屋城調査研究センターの原史彦先生も特別参加。豪華解説陣によるスペシャルツアーです。


梅雨明け前にもかかわらず、朝からジリジリと照りつける太陽によって、お昼前の気温はすでに30度以上。この日の和歌山市の最高気温はなんと36.1度まで上昇しました。暑さにも負けず、和歌山城北の大手門前に集まったこの日の参加者は全部で26名。みなさん筋金入りのお城マニアです。


さっそく大手門から入城と思いきや、中井先生が一の橋の手前にある石碑について解説をはじめました。


何気なく見過ごしてしまう石碑ですが「史跡 和歌山城」と刻まれています。

一般的には「〇〇城跡」「〇〇城址」などと表記されるいることが多いですが、国指定史跡のお城の中で、和歌山城と松本城だけはお城名がズバリ史跡名になっているとのこと。

和歌山城は現役で機能している城だからか?中井先生も冗談半分で文化庁に問い合わせたらしいですが、本当のところは不明だそうです。


これは大手門から入ったところの、巨大な桝形虎口。花崗斑岩を用いた切込みハギによる石垣です。

和歌山城の石垣は大きく3つの時代(豊臣時代、浅野氏時代、紀州徳川時代)に築城や増築が行われ、その時代ごとに最新の積石技術が用いられたため、場所によって石材や工法が異なるという特徴があります。


伏虎像

大手門からまっすぐ入ったところに虎の像があります。

山の形が虎が伏せているように見えたことから和歌山城のそびえる山は虎伏山と呼ばれています。

ただ、中井先生はどうみても虎が伏せた形には見えない、牛が寝ているといわれる備中松山城の臥牛山もそうは見えないと、同感です。


ここで、クリスさんから中井先生に質問。

「和歌山城の縄張りは藤堂高虎によるもので間違いないですか?」

中井先生は怪訝な顔をして、「確かに高虎は豊臣秀長の家来だった時期はあるが、和歌山城の築城には関わっていないと思うよ」と意外なお答え。

和歌山城のパンフレットにも高虎が最初に築城を手掛けた城として書かれているので、これにはクリスさんも参加者の方も衝撃を受けました。

中井先生は石垣を見上げながら「高ーい虎」と相変わらずのダジャレをかまして皆さんの笑いを誘います。


二の丸

当初は本丸御殿が山上にありましたが、不便で手狭だったため、ここ二の丸に藩主の居館や藩の政庁が置かれました。

二の丸御殿は藩の公式行事の場である「表」、藩主の公邸である「中奥(なかおく)」、藩主の私邸で、奥女中の生活の場である「大奥」の三つに分かれていました。二の丸御殿の一部は明治18年に大阪城内に移築され、紀州御殿と呼ばれていましたが、残念なことに昭和21年(1946)に焼失しています。


二の丸からは天守が綺麗に見えるスポットが。

かつて御殿が建っていた場所ですが、今は日陰がまったくない広場の真ん中です。暑い暑い!

急遽天守をバックに先生たちの撮影会となりました。


御橋廊下(おはしろうか)

二の丸から西の丸へ行き来するためにかけられた橋が平成18年(2006)に復元されています。

外から見えないように壁と屋根が設けられ、部屋のような造りになっています。

二の丸と西の丸の高さが違うので斜めになっているのが特徴ですが、このように斜めにかかる廊下橋というのは全国的に珍しいです。


御橋廊下礎石

発掘調査で堀の底からかつて御橋廊下を支えていた柱の礎石が展示されていました。

そもそもどうやってお堀の底にこの石を置いたのでしょうか?


ところで福井城や大分府内城では「廊下・橋」という呼び方ですが、なぜここは「橋・廊下」と上下逆なんでしょう?とたまたま近くにいたクリスさんに質問してみました。

「お殿様の好みじゃないでしょうかhahaha」とにこやかに返されてしまいました。


西の丸庭園

別名紅葉渓庭園。その名の通り、秋には紅葉がきっと美しいのでしょう。

当時の建物は残っていませんが、もともとは初代藩主・徳川頼宣の隠居用の西の丸御殿に造られた庭園でした。


和歌山城で一番多くみられるのが、この結晶片岩による石垣です。

緑色片岩とも呼ばれ、青みがかった色をしているのが特徴です。

前回のブログでご紹介した徳島城の石垣と同じ種類かもしれません。

山の頂上から山裾にかけてこのような野面積みの石垣が見られますが、主に豊臣・桑山氏時代に築かれたものです。


追廻門

西側の砂の丸への入り口となる門です。

この門は前回訪問したときに見逃していました。

かつて門の外に馬場があり、そこで馬を追廻していたことが名前の由来とされています。

赤く塗られた門というと東大を連想してしまいますが、裏鬼門にあたるため、魔よけのために赤く塗られたといわれています。


刻印石

このエリアの石垣には和泉砂岩と呼ばれる砂岩が使われており、刻印石も多くみられます。

中井先生いわく、刻印のほか、墨書(墨で石の裏側に名前や印を書いたもの)も見つかっているとのこと。墨書は通常黒だが、朱書きのものもあり、その違いが興味深いです。




動物園

南の丸跡には大正時代に開園した動物園があります。

規模はさほど大きくなく、入園料も無料です。

中井先生はこれも城の歴史の一部なので大切に守っいってほしいと語りました。


天守が見える本丸御殿曲輪で1回目の集合写真を撮りました。

ここからの写真は和歌山城定番の構図ですね。

時計を見ると13時40分、おそらくこの日の暑さのピーク。全く日陰がないので、倒れそうになりました。


天守の下まで来ました。和歌山城でも墓石や石棺が転用石として使われているそうですが、ちょうどこの天守の裏側にあたるので現在は立ち入り禁止になっています。


ここでようやく休憩です。天守に入りたい人、売店でかき氷やアイスを食べる人に分かれて自由行動となりました。


私は前回3年前にも来ているのですが、あまりに暑かったので再建天守の中なら冷房で涼めるかなと思い、天守を見学することにしました。

中の様子と最上階からの眺めは前回と変わっていなかったので、前回のレポートを載せておきます。


2020年の和歌山城訪問レポートはこちら



クリスさんの自撮りによる記念撮影

実はこのあと中井先生も自撮りに挑戦しましたが、半分くらいの人しか入らない、天守が入らないなどあって、みんな大いに笑いころげていました。


「人の形をした木の木の根っこ」

前回自分のブログでもご紹介しましたが、裏坂を下りきったところにあります。

頑張って登ろうとする姿がかわいいです。

これは中井先生もご存じなかった!


松の丸櫓高石垣

和歌山城一の高石垣。

まるで富士山のような圧倒的な迫力でそびえ立っています。

初代頼宣が紀州富士(龍門山)を眺め、故郷の駿河の国を偲んだといわれています。


岡口門

南東にある立派な櫓門です。築城時はここが大手門でしたが、浅野氏の途中から搦手門(裏門)となりました。

この岡口門と西側の追廻門は空襲でも焼けずに残った数少ない江戸時代からの遺構で、昭和32年(1957)に重要文化財に指定されています。


これは岡口門に続く土塀の狭間。

よく見ると狭間の枠を石で象っているのでギザギザしています。

こんなマニアックなところを見学するツアーは他にないですね。


岡口門からいったん城を出て、道路の向かい側にある岡公園に入ります。

ここに一体何があるのか?


和歌山城の石垣の石材を切り出した石切丁場(いしきりちょうば)の跡が残されていました。


岡の上には矢穴があけられた状態の石もありました。


再び北側の大手門まで戻り、和歌山城公園を出たところには筆頭家老の三浦家屋敷など家臣の屋敷が立ち並んでいました。

さらに北側へ200mほど移動すると和歌山城の外堀である堀川があり、京橋とよばれる幅の広い橋がかかっています。


ここにはかつて三の丸の玄関口となる京橋御門がありました。


橋の下の遊歩道に降り、その階段の奥、ビルの地下にあたる部分には堀川沿いに当時の石垣が10数メートルにわたって残されています。


猛暑の中、4時間半にわたったツアーもここで終了、最後に中井先生と記念写真を撮って解散となりました。

ペットボトル3本飲み干し、すべて汗で流れましたが、運営側で用意していただいた塩タブレットのおかげもあって熱中症にもならずに乗り切ることができました。

駅前で和歌山ラーメンを食べたあと、心地よい疲れとともに和歌山を後にしました。


今回も初めて見る場所や初めて知る話が多く、勉強になりました。

中井先生、原先生、クリスさんありがとうございました。

幹事のにのさんもお疲れ様でした。お世話になりました。

また機会があれば是非参加したいと思います。


以上和歌山城マニアックツアーの参加レポートでした。



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