兵庫県淡路島、洲本市にある洲本城をご紹介します。
大永6年(1526)戦国大名三好氏の重臣・安宅治興が標高133mの三熊山に築城したのが始まりとされています。
天正9年(1581)に豊臣秀吉の淡路討伐により、安宅氏は追放。かわってセンゴクこと、仙石秀久が城主となります。
その後、賤ヶ岳の七本槍の一人、脇坂安治が入り洲本城の大改修を行い、現在見られる総石垣造りの縄張りが完成します。この時、脇坂は朝鮮出兵の際の倭城築城の経験を活かし、山上と山麓部を東西二条の石垣で連結するという「登り石垣」を築きます。
城の規模は東西約800m、本丸、東の丸、南の丸、西の丸など主要な曲輪が置かれ、本丸には天守も築かれました。
慶長14年(1609)脇坂安治が移封となって後は、姫路城主の池田輝政の三男・忠雄が淡路国領主となりますが、忠雄は洲本城を廃城とし、岩屋城、ついで由良城を居城とします。
大坂夏の陣後、元和元年(1615)淡路国は徳島藩の蜂須賀氏の所領となり、家老の稲田氏が由良城の城代となります。
稲田氏は交通の便が悪いなどの理由から寛永8年(1631)から4年がかりで再び洲本城を改修し、本拠を移しました。
この移転は城下町ごとの大移転であったため「由良引け(ゆらびけ)」と呼ばれています。
寛永19年(1642)には山麓に居館が造られ、政務の中心となり、これが「下の城」と呼ばれるのに対して、山頂の城は「上の城」と呼ばれるようになりましたが、使われることはありませんでした。
明治維新になり洲本城は上の城も、下の城も含めて廃城となりました。
現在、下の城の跡地には洲本市立淡路文化史料館や裁判所、税務署などが建てられています。
本丸には、天守台より一回り小さい鉄筋コンクリート製の模擬天守が建っていますが、これは昭和3年(1928)に御大典(昭和天皇の即位式)を記念して作られたもので、模擬天守としては日本最古のものです。
平成11年(1999)に国の史跡に指定され、平成29年(2017)には続日本100名城に選定されています。
今回はあまり時間がとれなかったので、下の城はスルーして、車で上の城を目指します。
大手門跡
ここまで車であがってくることができました。
上の城の表門があったとされる場所ですが、脇坂安治在城のころと思われる城絵図には、この大手口はのっていないということです。
そのため、この大手門は、いつごろ、どういった目的で作られたのか、ということがはっきりとわかっていません。
馬屋跡(月見台)
本丸の南側に突き出る形の郭です。
先端部が一段高くなっており、東西に数個の自然石が一列に並んでいることから何らかの祭祀の場所であったかもしれないといわれています。
ここからは紀淡海峡を望むことができます。この景色は「洲本八景その2マリーナを大観」に選ばれています。
左側が、戦時中に要塞が造られた「友ヶ島」、そして右側に少し見える細い島が洲本城から一時 淡路の政庁を移していた由良城のある「由良島」です。
腰曲輪(二段積みの石垣)
馬屋曲輪の北東部に築かれています。
低い石垣を二段積み重ねて石垣を高く見せるのは、比較的初期の積み方とみられています。
日月の池(じつげつのいけ)
ただの公園の池のように見えますが、当時の絵図によれば、ここには屋敷があり、庭園があったようです。
もともとは谷地の湧き水を、石垣で囲って池にしたもので、近くには井戸もあり、籠城戦に備えたものです。現在も現在も水が枯れることはありません。
八王子木戸
山麓から登ってくると最短距離でこの虎口に通じています。この奥に八王子神社があることから八王子の木戸と呼ばれています。
大永6年(1526)安宅治興が築城の際、勧進した鎮守社です。
南の丸隅櫓跡(二重の稜線)
脇坂安治が城主の頃に築かれたとみられる文禄・慶長期の石垣です。
先に築いた石垣の左側にさらに石垣を増築したあとが二重の稜線となってみられます。
明治以降、上の城は荒廃し、石垣には樹木が生えるなどしていましたが、近年になって伐採され、城下からも石垣がよく見えるようになりました。
ただし、石垣に入り込んだ切り株はそのままになっているところが多いです。
本丸南側の石垣
本丸への大石段
本丸南の虎口へと通じる広く大きい造りの石段です。関ケ原の戦い以降の構築とみられています。
石段を登り切り、右に曲がると、内枡形虎口になっています。
本丸全景
洲本城の本丸は周囲を内側も外側も石垣でしっかり固めた堅固な造りです。
本丸の北西に大天守、北東には小天守があったと伝わり、大天守と小天守の間は続櫓で接続されていました。
その2に続きます。