だいぶ間が空いてしまいましたが、高取城訪問レポートその2です。
前回ご紹介したように高取城は備中松山城(岡山県)、岩村城(岐阜県)と並んで日本三大山城のひとつです。
この3つの山城を比較すると・・・
備中松山城(岡山県)
海抜480m 比高340m 建物が現存する中で最も高い
岩村城(岐阜県)
海抜721m 比高150m 海抜が一番高い
高取城(奈良県)
海抜583m 比高390m 比高が一番高い
とそれぞれ日本一と呼ばれるに相応しい特徴があることがわかります。
高取城の比高がもっとも高いということは、山のふもとから本丸までの高さが最も高いということで、それだけ登るのが大変だということがわかりますね。
芙蓉城石碑
風化してほとんど読めませんが「巽高取雪かとみれば 雪でござらぬ土佐の城」と歌が書かれています。
城下から大小の天守や多くの櫓群が積み重なる美しさが芙蓉の花に喩えられ、芙蓉城とも呼ばれました。
なお、土佐とは高取の旧名ですが、飛鳥時代に都造営のために四国の土佐から徴用された人々が、この地に住みつき、故郷の名を懐かしんで付けたことに由来するといわれています。
二の丸から本丸に入るためには北側へ回り込む形になります。
本丸の北側には木彫りの天守となぜか熊の案内板が設置されていました。
ARによる本丸再現
本丸の大きさは東西に75メートル×南北に60メートル。周りは高さ約8メートルの石垣に囲まれています。
北西に三重三階地下1階の大天守、南西には同じく三重三階の小天守、東側には二重の硝煙櫓があり、虎口付近には二重の具足櫓、対岸には平櫓の鉛櫓がありました。
これらの天守、櫓が多門櫓で連結されたいわゆる連立式天守の形式でした。
連立式天守といえば、姫路城、松山城などが知られていますが、本多氏の主君である豊臣秀長が最初に築城した和歌山城に似たイメージだったのではないでしょうか。
本丸虎口跡
いよいよ本丸です。本丸の虎口も幾度にも折れ曲がり、徹底的に敵の侵入を阻んでいます。
現在の本丸
本丸中央には礎石も残されており、御殿があったとみられています。
楠井戸跡
山城なので、水の確保は重要課題でした。高取城にも井戸は多数見られますが、その大半は雨水や湧水を溜めておくもので、地下の水脈まで達したものはほとんどありません。
天守台
大天守の大きさは東西に約16メートル、南北に約14メートルの規模で、また、天守台には幅約3メートルの穴蔵が設けられています。
石垣には石棺が使われている箇所があります。
本丸からの眺望
七つ井戸
本丸をあとにして、搦手の急な斜面を下っていくと、七つ井戸と呼ばれる場所があり、井戸が残されています。
ここから上を見上げると、幾重にも石垣が折り重なって攻め手に絶望感を与えます。
それでは、再び大手門跡に戻り、ここからは城下町へと降りていきます。
本来は下から登ってくるので、
黒門→二の門→三の門→矢場門→松ノ門→宇陀門→千早門→大手門
というのが正しいルートですが、今回私はズルをしたので、逆に写真を並べていきます。
千早門跡
宇陀門跡
途中の門も石垣で虎口が形成されていて、厳重です。
松ノ門跡
ここにあった松ノ門は1892年(明治25年)に土佐小学校の校門として移築され、一部現存しています。次回その写真をのせておきます。