小倉城①(福岡県) | おおとり駆の城日記

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福岡県北九州市の小倉城です。続日本100名城に選定されています。


関門海峡に面した小倉は陸海の交通の要衝として、古くから重要視されてきました。

小倉城の歴史は、戦国末期(1569年)中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから始まりますが、この城を本格的に築城したのは慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後に入った細川忠興です。


忠興は徳川家康から豊前一国と豊後の一部、合わせて40万石を与えられ、当初は中津城(大分県中津市)に入りますが、慶長7(1602)年からは小倉城の大改修を開始し、約7年の歳月をかけて完成させました。


小倉城は紫川の河口に築かれ、紫川を境に西側一帯が西曲輪、東側一帯が東曲輪と呼ばれます。天守などが建つ城の中心部は、西曲輪にありました。江戸時代初期の絵図をみると、壮大な縄張りをもつ城だったことがわかります。現在の小倉駅付近までもが城内でした。


江戸時代の小倉は、長崎街道と秋月街道、中津街道の起点でもあり、城下町であるとともに宿場町でもありました。忠興は築城と同時に諸国の商人や職人を集めて商人保護政策をとり、外国との貿易も盛んに行ったことで、小倉の城下町は大いに繁栄しました。


寛永9(1632)年に2代藩主の細川忠利が熊本へ転封になると、播磨国明石から譜代大名の小笠原忠真が15万石で入封し、以降明治維新まで小笠原氏が城主をつとめます。


小倉城が歴史の表舞台に登場するのは幕末。慶応2(1866)6月幕府は第二次長州征伐の軍を興し、長州藩を攻めますが、その中心となったのが小倉藩でした。数では有利な幕府軍でしたが、高杉晋作率いる奇兵隊をはじめ、近代兵器を装備した長州軍に押され撤退。このとき自ら小倉城に火をかけたことにより、城は焼失してしまいました。


小倉城の天守は4重5階の大天守と1重の小天守からなる連結式層塔型天守で、最上階の5階が4階よりもせり出した南蛮造り(唐造り)が特徴ですが、忠興によって建てられた当初の天守は破風が一切無いシンプルな外観をしていました。しかし、天保8(1837)年火災によって焼失してしまいます。現在見られる天守は、残された絵図をもとに昭和34(1959)年に鉄筋コンクリートで復興されたものです。平成31(2019)年にリニューアルされています。





内堀

北の丸西側の内堀です。

この内堀に沿った清張通りを南に下って歩き、西ノ口門から城内に入ります。




松本清張記念館

西ノ口門には推理作家として有名な松本清張の記念館があります。

清張は小倉で生まれ、44歳までをこの地で過ごします。「点と線」「ゼロの焦点」「砂の器」「黒革の手帳」などの推理小説は現在でもドラマや映画化されるなど人気の高い作品ですが、清張は歴史小説や古代史、さらには「日本の黒い霧」に代表される現代史の研究などの創作活動もしていました。

記念館の中には清張の著作年表や再現された書斎、映像で清張の軌跡が紹介されています。

松本清張ファンならずとも見ごたえのある記念館だと思います。


白洲灯台

松の丸は本丸の南側にある50m四方も無いような小さな曲輪です。曲輪の片隅に灯台の模型が建てられています。幕末から明治にかけ岩松助左衛門という庄屋さんが私財をなげうって、海難事故の多い関門海峡の浅瀬・暗礁の多い響灘の白洲に灯台を建てました。これはそれを模したものです。


鉄門(くろがねもん)跡

松の丸から本丸への入り口です。この鉄門は一般家臣らの登城口でした。


鉄門の右側には井戸も残されていました。石垣に囲まれた井戸というのは珍しい。


槻門(けやきもん)跡

西ノ口門から鉄門、さらにその東側へと本丸南端の石垣が続いています。この石垣に沿って東へ向かうと槻門跡がありました。

こちらの槻門は城主や家老など限られた人が使っていた正門になります。鉄門と同様に松の丸と本丸をつなぐ門でもあります。


旧第12師団司令部正門

明治になって、本丸には歩兵第14連隊や第12師団の司令部が置かれました。

明治32(1899)年にこの第12師団の軍医部長として配属されたのが「舞姫」「山椒大夫」「阿部一族」などで知られる文豪・森鴎外です。鴎外もこの門を通って登庁したのでしょう。


宮本武蔵と佐々木小次郎

本丸には巌流島の戦いを模した二人の銅像があります。

剣豪・武蔵と当時小倉藩の剣術師範をしていた小次郎は小倉藩領の舟島(巌流島)で戦ったといわれていますが、史実としては確認されていないとか。


本丸から眺めた天守


次回へ続きます。



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