大高城・丸根砦・鷲津砦・鳴海城 | おおとり駆の城日記

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子供の頃からお城好き 今までに巡ったお城の感想 その他どうでもいい趣味のことなどあれこれ綴っていきます

桶狭間の戦いに関連する城跡もついでに訪問しました。


大高城

大高城はもともとは織田方の城でしたが、桶狭間の戦いの前年にあたる永禄2(1559)年に鳴海城主山口教継が今川方に寝返り、大高城を攻略してしまいます。
大高城には今川の家臣鵜殿長助が入城しますが、織田方は周辺に鷲津砦、丸根砦、丹下砦、善照砦、中島砦などを築き、大高城包囲網をしきます。
一説には今川義元の尾張侵攻は上洛のためではなく、この大高城を救援するためだったとも言われています。


松平元康(徳川家康)は桶狭間の戦いの直前鷲津砦、丸根砦の目をかすめて、100頭の馬に積んだ兵糧を大高城に運び込む事に成功します。これが有名な大高城の「兵糧入れ」です。

桶狭間の戦いで義元が討死し、今川軍が尾張から撤退したあと、今川氏から独立した三河の元康との間に清洲同盟が成立したため、大高城はその存在意義を失い、廃城となります。

規模は東西約106m、南北約32m、四方に二重の堀があったそうです。

現在、大高城は城址公園となり、土塁など当時の遺構も残されていますが、周辺は道路が狭いうえに、公園への道がわかりにくいので、下から歩いて登ったほうがよいかもしれません。


大高城本丸跡


丸根砦

大高城から東に約800メートルに位置し、鳴海から延びる丘陵の先端に築かれました。
松平元康と、朝比奈泰能は、桶狭間の戦いの当日5月19日早朝この丸根砦と鷲津砦を攻めます。丸根砦はもともと防御を目的としていない砦なので、佐久間盛重を守将とした織田軍が立てこもりましたが、激戦の末、守備側は全滅したといわれています。
こちらも桶狭間合戦後に廃城となっています。


鷲津砦

鷲津砦は大高城の北東約700mの丘陵上に築かれました。
規模は東西約40m、南北約70mほどなので、まさに城ではなく砦の規模です。
丸根砦と同じく桶狭間の戦い当日に落城しています。信長が熱田神宮に差し掛かった時に、落城の煙があがっていたのが見えたといいます。

鷲津砦の場所には異説があり、現在の石碑が建っている場所よりも北側にあったのではないかともいわれています。
生い茂った樹木が視界の邪魔をしますが、大高城からはこの砦がよく見える距離です。



鳴海城

鳴海城ももともとは織田方の城でしたが、計略で今川方に奪われます。
桶狭間の戦いの前年には、信長は鳴海城の周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築いて、これを牽制します。
ただ鳴海城そのものは桶狭間の戦いの当日、戦に巻き込まれることはなく、城を守っていた岡部信元は織田方に城を引き渡し、駿河に撤退します。

現在城があったとされる場所は、道路を隔てて西側の城跡公園から、天神社のある東の小さな高台あたりといわれています。それほどはっきりとした遺構は残っていませんが、公園の近辺には空堀やなんとなく土塁?的な地形がみられます。


以上桶狭間の戦いの跡を1日でめぐってみましたが、周辺は住宅が立ち並び、事前に調べていかないと砦の跡などは見落としてしまいそうになりました。
中世の地形は現在と異なり、この辺り一帯は海岸線が間近に迫る丘陵地帯だったそうです。
今から450年前、近世の幕開けとなる戦いが確かにここで繰り広げられたのですね。




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