桶狭間の戦いに関連する城跡もついでに訪問しました。
大高城
大高城はもともとは織田方の城でしたが、
大高城には今川の家臣鵜殿長助が入城しますが、織田方は周辺に鷲津砦、丸根砦、丹下砦、善照砦、中島砦などを築き、
一説には今川義元の尾張侵攻は上洛のためではなく、
松平元康(徳川家康)は桶狭間の戦いの直前鷲津砦、丸根砦の目をかすめて、
桶狭間の戦いで義元が討死し、今川軍が尾張から撤退したあと、今川氏から独立した三河の元康との間に清洲同盟が成立したた
規模は東西約106m、南北約32m、
現在、大高城は城址公園となり、
大高城から東に約800メートルに位置し、
松平元康と、朝比奈泰能は、桶狭間の戦いの当日5月19日早朝この丸根砦と鷲津砦を攻めます。丸根砦はもともと防御を目的としていない砦なので、佐久間盛重を守将とした織田軍が立てこもりましたが、激戦の末、守備側は全滅したといわれています。
こちらも桶狭間合戦後に廃城となっています。
鷲津砦は大高城の北東約700mの丘陵上に築かれました。
規模は東西約40m、南北約70mほどなので、
丸根砦と同じく桶狭間の戦い当日に落城しています。信長が熱田神宮に差し掛かった時に、落城の煙があがっていたのが見えたといいます。
鷲津砦の場所には異説があり、現在の石碑が建っている場所よりも北側にあったのではないかともいわれています。
生い茂った樹木が視界の邪魔をしますが、大高城からはこの砦がよく見える距離です。
鳴海城
鳴海城ももともとは織田方の城でしたが、
桶狭間の戦いの前年には、信長は鳴海城の周囲に丹下砦、
ただ鳴海城そのものは桶狭間の戦いの当日、
現在城があったとされる場所は、
以上桶狭間の戦いの跡を1日でめぐってみましたが、
中世の地形は現在と異なり、
今から450年前、
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