ら戦国時代に行われた数ある合戦の中でも最も有名な戦いといえば、桶狭間の戦いではないでしょうか。
今回は城跡ではありませんが、
まずは簡単に桶狭間の戦いの概略を・・・
永禄3年(1560年)5月12日、駿河・遠江・
一方、尾張の織田信長は、5月19日未明、幸若舞の敦盛「
清洲を出るときは、従う武者わずかに6騎、
その頃、今川軍は、先鋒の松平元康(徳川家康)隊の猛攻で難なく丸根・鷲津の両砦を攻め落とし、大高城周辺の制圧を完了します。
義元本隊は沓掛城から大高城へ向かう途中の桶狭間(田楽狭間)
今川軍は散り散りとなり駿河に退却。
戦いによる死者は、今川軍2500人、
桶狭間の戦い以降、今川氏は没落し、
というのが、「信長公記」
いずれにしても信長の情報戦略が功を奏したことは間違いありませ
さて、愛知県内には桶狭間古戦場と伝わる場所が2つあります。
ひとつは名古屋市緑区にある「桶狭間古戦場公園」、もう一つは豊明市にある「桶狭間古戦場伝説地」です。
そもそもお城と違い、
どちらもさほど離れた場所ではありませんから、この辺り一帯で戦いが行われたということでしょう。ただ、現在は住宅が立ち並び当時の地形を想像するのも難しくなっています。
「桶狭間古戦場公園」
名古屋市緑区にあります。当時の地形をジオラマ風に石や池、園路などで表現しており、織田・今川・徳川の進軍ルートも石板に示されています。
今川義元の首を洗ったとされる池もありましたが、とても綺麗な池で首を洗う情景を想像するのは無理があります。
織田信長と今川義元の銅像
間には「近世の曙」の文字が刻まれています。もちろん本人達にはそんな意識はなかったでしょうが(笑)
「桶狭間古戦場伝説地」
おお、こちらにも墓がある。
ただ案内板には正直に霊がまつられていると書かれているのは可愛げがあります。
しかし墓の後ろには、「今川義元戦死所」と刻まれた石碑が建っています。なぜそんなことがわかる?と思わず苦笑。
古いことは古いですが、少なくとも明治期以降に建てられた石碑なのに。
戦死場所の特定なんて、どうでも良いように思うのですが・・