山田才吉(やまだ さいきち)が、
手がけた建築物について調べました。
(付記)
その続きとしてのブログです。
山田才吉について
嘉永5年(1852年)8月-昭和12年(1937年)
実業家。美濃国出身。
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👅山田才吉が手がけた建築物
◎東洋館
1895年(明治28年)3月、
東陽町(現在の中区栄五丁目24付近)に料理旅館「東陽館」を開業。
1930年(明治36年)8月に
客が投げ捨てた煙草の吸殻が原因で本館南側から出火。
火災で本館を焼失した。
(追記)
東洋館について
◎聚楽園と聚楽園大仏
才吉は1927年(昭和2年)聚楽園に阿弥陀如来坐像の大仏を建立。
聚楽園大仏は日本最初の鉄筋コンクリート製であり、完成時は日本最大の大仏だった。
(追記)
聚楽園大仏について
◎南陽館と名古屋教育水族館
1910年(明治43年)、現在の港区に「名古屋教育水族館」を開館。
東築地5号地に5階建ての料理旅館「南陽館」建設を開始し、これらへのアクセス
として熱田電気軌道を開業。
1912年(大正元年)9月の台風による高潮で完成間近の南陽館は倒壊、水族館も
大きな打撃を受けた。
◎北陽館
1924年(大正13年)から才吉は、岐阜県可児郡土田村大脇(現在の可児市)の
木曽川中流部を「ライン遊園」として観光開発を始めた。
1926年(昭和元年)に可児郡土田村大脇(現在の可児市)に料理旅館「北陽館」
を開業。
才吉の死後、北陽館は売却され所有者が何度か変わった後に名古屋鉄道可児寮
(名鉄道場)となり、1976年(昭和51年)解体閉館し、跡地は温泉入浴施設
「湯の華アイランド」となっている。
(付記)
名古屋名物となる守口漬を“発明”したのも才吉
山田才吉は、守口漬の考案者で、若宮神社西門のすぐ北隣で喜多福という店で
売っていた。
漬物の販売で巨利を得た彼は、その資金を元手に、明治17年(1884)に缶詰
製造工場を作った。
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(日めくりより)
今日(18日)の言葉
『入り船あれば出船あり』
👅
港に船の出入りがあるように、
一方によいことがあれば、他方に困ることもあり、世はさまざまであることのたとえ。
👅
港に入ってくる船もあれば、出て行く船もあるように、世の中は常に移 り変わって
いくということ。
(20,316歩)