先日、
北区清水2丁目15-20にあります、
名刹、八王子神社・春日神社を訪ねる…。
↓+の場所
八王子神社・春日神社について
↓ネットより
創建年 | 伝・697-707年(飛鳥時代後期)/1226年(鎌倉時代前期) |
旧社格・等級等 | 指定村社・十一等級 |
祭神 | 天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと) 天穂日尊(あめのほひのみこと) 天津彦根尊(あまつひこねのみこと) 活津彦根尊(いくつひこねのみこと) 熊野櫲樟日命(くまのくすひのみこと) 田心姫命(たごりひめのみこと) 湍津姫命(たぎつひめのみこと) 市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと) 武甕槌命(たけみかづちのみこと) 経津主命(ふつぬしのみこと) 天児屋根命(あめのこやねのみこと) 比売神(ひめがみ) |
↓北区史跡散策路より
もとは那古野の庄にあったものを、名古屋城築城に際し遷地。
古来より、小児の守り神として参詣者が多い。
神社西南に、明治天皇御小休所の標柱がある。
↓ネットより
八王子神社は名古屋城築城に際して移された神社の一つ。
春日神社はあとから合併したもので、もとからあったのは八王子。
名古屋台地の北は名古屋城築城以前、那古野庄今市場と呼ばれていた。
後に、三の丸となるあたりに
・天王(亀尾天王社…今の那古野神社)、
・若宮(今の若宮八幡社)
・八王子
があった。
1610年、那古野庄に名古屋城を築城することになり、天王、若宮、八王子は城外に出されることになる。
その際、神託を聞く占いをしたところ、
若宮は南へ、
八王子は北東の志水(清水)に移すことが決まった。
天王だけは何度くじを引いても移してはいけないと出たため、そのまま三の丸に残すことになる。
天王を城内の守護、若宮を城下の人々の守護、八王子を城の東北の守護とした。
(付記)
名古屋城築城後、三の丸の天王の隣に東照宮が建てられた。
明治に入って天王と東照宮は城外に出され、天王は那古野神社と名前を変える。
かつての八王子社は子供の守り神として崇敬され、祭礼などは大変賑わったと伝わる。
↓社殿竣工記念碑をデジカメ
下の塗分は拡大
デジカメ
↓拝殿
↓拝殿の右側にあり
↓拝殿の左側にあり
👇境内にて
↓拝殿の左奥にあり『名古屋城築城時の落とし石を加工したと言われる手水鉢』
↓宮城遥拝所碑
境内の右に立つ石標で、1950年(昭和15)にここから皇居(宮城)を遥拝する目的で建てられた。
(注)
宮城遥拝(きゅうじょうようはい)とは、
日本や大東亜共栄圏において、皇居(宮城)の方向に向かって敬礼(遥拝、拝礼)する行為である。
遥拝する場所は、日本国内(内地)、外地、外国を問わず用いられている。
皇居遥拝(こうきょようはい)ともいう。
日本国民が天皇への忠誠を誓う行為の一つであり、御真影への敬礼とともに、宮城遥拝も盛んに行われた。
特に第二次世界大戦中には、天皇へ忠誠を介して戦意高揚を図る目的で、宮城遥拝は盛んに行われた。
↓明治13年(1880年)に明治天皇が京都に巡幸したとき、清水で休憩した。
そのときの記念碑が建つ。
このときの天皇は東京から中山道と下街道経由で名古屋に到り、京都へと向かった。
※戦前、皇威発揚政策により明治天皇が巡幸された全国各地に
「休憩や宿泊した旧跡である」という内容を刻んだ石柱が建てられた。
この碑もその一つ。
↓杉屋佐助、寄進の常夜灯
(付記)
杉屋佐助について
(没年/初代佐助:文化9(1812)年/二代目佐助(芝丸):元治2年2月5日(慶応元年・1865年)。
没年から換算して二代目佐助は柴山藤蔵の約10歳位、伊藤萬蔵の50歳位年上だろうと思われる。
濃州石田村市の枝(現岐阜県羽島市)出身。
初代佐助が名古屋中御園町(尾張藩御用蔵の並ぶ堀川納屋橋下流辺り)の米穀問屋に奉公し後、別家を許され杉屋を名乗る大店となり杉屋の基礎を作った。
大正7(1918)年8月米騒動を機に廃業。
※初代佐助の没年は文化9(1812)年、最も古い奉納寄進物は文政10(1827)年、初代没後15年程経過し寄進は二代目により始まりその後30年間程続いた。
また年代の近い柴山藤蔵との連名の奉納寄進物はある。
(特記)
八王子神社・春日神社について