「泥江縣神社」の名勝標札…中区錦一丁目7-29(№39) | 「洋ちゃん」のひとりごと

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私「洋ちゃん」、中区内にある、

名古屋市教育委員会設置の名勝標札巡りをしています。

その一環で、

 

先日(19日)

「泥江縣神社」名勝標札をデジカメ

設置場所 中区錦一丁目7-29

 

泥江縣神社について

創建年 伝・859年または862年(平安時代前期)
旧社格・等級等 郷社・十一等級
祭神 應神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
姫大神(ひめおおかみ)
 

↓資料より

・尾張本国帳に従三位泥江縣天神とあり、

・清和天皇貞観元年豊前の国、宇佐八幡宮からこの地に勧請せられ当時境内八丁四方あり

・応永二十六年修繕、遷宮、社殿は、古社寺保護建造物に指定せられ、

 徳川時代には藩主を初め一般民衆の崇敬厚く広井の八幡と稱して親しまれ

 大祭には豪華な神輿をはじめ氏子、各町の傘鉾車が出て白山神社への

 神輿渡御武者行列などあり名古屋名物であった。
・昭和二十年三月十九日の戦災で烏有に帰し復興したが昭和四十一年不審火に依り再度焼失した。

 幸いにも二度共御神体は御無事であり再興して今日に至った。


↓境内由緒書より

祭神は、応神天皇・神功皇后・三女神。尾張本国帳には、「泥江縣天神」とある。
社伝によれば清和天皇の貞観元年(859)に豊前国宇佐(大分県宇佐市)の八幡宮の分霊として勧請したという
当時は、八丁四方の広大な社域を有したが、慶長の検地・町割、戦後の道路整備等で減少してきた。

天正のころから広井八幡宮と呼ばれ、藩主を始め広く民衆の崇敬を集めた。

七代藩主・宗春のころには、境内に芝居小屋も作られた。
例祭日は、神輿が傘鉾を従え、丸の内一丁目の白山社へ渡御し、山車も出たという。

↓名勝標札

↓拝殿

↓末社

↓手水鉢…昇龍見返り之楠の下にあり

↓御神木の公孫樹

↓尾張名所図会より

天正年間(1573~1591年)には広井八幡宮と呼ばれていた。

↓下の文献より

 

(付記

↓昭和10年頃の地図をスキャン

泥江」の由来についてネットで調べました)、
・昔、名古屋西部には泥地があり、その泥地全体を「泥江」と呼んでいたそうです。
・それが町名へと変化した。

町名が整理された現在は‘泥江町交差点”として名前が残っている。

 

・泥江縣神社の付近は、昔はこの辺は蓮田のような湿地帯だった。

明治24年(1891)の測図・地図を見ると、この地域は全て田んぼになっている。

 

・古語辞典を繰ってみると、「泥」のことを昔は「ひぢ」と呼んでいた、

・漢和辞典では、「泥」のことを

  「水気があってねちねちとくっつく土。またぬかるみ」と出てきます。

↓手持ち資料より

(特記)

泥江縣(ひじえあがた)神社