東区百人町 ・百人町どんぐり広場について | 「洋ちゃん」のひとりごと

「洋ちゃん」のひとりごと

 人生いろいろ楽しもう

東区百人町・百人町どんぐり広場について調べました。



 

東区百人町の由来について。

百人組が1611年(慶長16年)に尾張藩に転じ、渡辺半蔵百人組となる。

これが居住した屋敷が当地にあったことに由来する。

 ◎1878年(明治11年)12月28日に、

 北百人町・南百人町・出雲小路の各一部より、名古屋市百人町として成立。

◎1889年(明治22年)10月1日に、

 名古屋市編入に伴い、同市は百人町となる。

◎1908年(明治41年)4月1日に、

 東区編入に伴い、同区百人町となる。


百人町どんぐり広場について

百人組同心吉田氏所有の土地で十代目孟辰氏が大正3年社会福祉事業の拠点「和孟会館」を建て活用した場所。

その後この建物は老朽化し取り壊された。

昭和36年土地を名古屋市に寄付、

同42年には名古屋市でいち早くこの広場が「どんぐり広場」の愛称とともにどんぐり広場の第1号となる。

 

↓ 名古屋市長杉戸清と彫りあり

 

十代目吉田孟辰様について

孟辰は江戸時代に街道の防衛に当たる「百人組同心」として尾張藩に仕えた初代久右ヱ門の10代目。

明治維新以降に実業界に進出した。

大正時代には自らの土地を公道として寄付し、公民館とも言える「和孟会館」を設立するなど、社会福祉事業に取り組んだ。

組屋敷に面した道は「吉田小路」として、いまもその名をとどめている。


東区の歴史(名古屋市区市史シリーズ…黄色の本)より

町名の由来ともなった百人組はもとの関東百人組で、慶長十六年(1611)に尾張藩に付属し、渡辺半蔵百人組と称された。

宝永六年(1709)頃の尾府名古屋図に「渡辺飛騨守百人組御足軽」と記載されている。

百人組同心の組屋敷は、はじま呉服町(現・丸の内)、次に矢場町(現・中区大須)を経て、元禄七年(1694)に当地に移されたという。


 

↓百人町の石碑。

吉田小路の碑~同心組屋敷をつなぐ昔ながらの迷路のような道の入り口
   

 

↓吉田孟辰氏寄付ニヨリ此道ヲ造ル

  大正六年三月 百人町総代



↓町内にて・デジカメ
   
 

 ↓新聞記事


↓ 昭和前期の地図…建中寺の右に百人町と記載あり。

「洋ちゃん」のひとりごと

↓ 明治24年の地形図:四角く赤で囲ったあたりが百人町。
「洋ちゃん」のひとりごと

↓ 上…平成元年頃

   下…先日デジカメ

(追記)

2012年5月12日にタイトル

百人町・黒門町筋街並み
2018年9月3日にタイトル

名古屋市東区百人町の町名の由来

としてブログしました。

こちらと併せてご覧下さい。

 

(17,710歩)