瑞穂区内古墳・遺跡シリーズ(№6)おどり山古墳・村上神社 | 「洋ちゃん」のひとりごと

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先日、

数日間程かけて、瑞穂区内の古墳及び遺跡を訪ねてきました。

シリーズとして紹介させて頂いてます。 


№6として、

瑞穂区村上町二丁目3-2にあるどり山古墳・村上神社です。

どり山古墳・村上神社」について

(名古屋市瑞穂区史跡散策路等より引用)

おどり山古墳は、瑞穂台地の東縁にあり、別名まごく山、大殿山(おとど山)とも称する。

昭和初年の調査では高さ3.6m、直径40m周湟(古墳の堀)幅約2㍍余の円墳で昔の姿を残していたが、区画整理で周囲を削られ原型は壊され、現在は神社境内地になっている。

5世紀半の円墳とされ、古墳からは円筒埴輪も葺石(ふきいし)も出土していないが北側で須恵器が出土しているたこの辺は古墳時代の集落地跡であったとされる。

この古墳は瑞穂区内に現存する数少ない古墳の一つでもある。



 

古墳の上に、

天保年間(1830~44)には、真好天満自在天神が祀られていたが、

明治2年(1869年)に今の瑞穂通り4丁目に遷座され、その跡に村上神社が祀られた。


現在は、

おどり山古墳は大きく削られ、長方形の高台となっており墳頂に、村上神社が建立され周囲を削り短形石積になっている。

 

村上神社について

創建年 明治初期
旧社格・等級等 十五等級
祭神 熱田大神(あつたおおかみ)

境内社 熱田社、津島社、秋葉社、

玉垣は大正9年(1920年)建立。

 

デジカメ

 
 
 

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 神社の北端より下をデジカメ…古墳の上に神社が祀られています。

(付記)

村上町の町名の由来

        「洋ちゃん」のひとりごと

寛政6年(1666年)尾張藩主、村上治兵衛が開墾した土地で、村上新田と呼ばれていたことにちなみ昭和6年(1931年)に町名に付けた。

 

(20,755歩)

 

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先日(13日)

私「洋ちゃん」所属する瑞穂区某史跡案内の会の勉強会(見学会)

「村上神社」を訪ねました。


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 村上町の少し上の赤丸の場所にあります。


(付記)

村上町の町名の由来

寛政6年(1666年)尾張藩主村上治兵衛が開墾した土地で、村上新田と呼ばれていた事により、ちなみ昭和6年(1931年)に町名に付けた。

 

・私「洋ちゃん」始めて訪ねた場所です。

・瑞穂台地と八事丘陵との間に急な坂道があり…ビックリしました

・会員になり新しい発見を楽しんでいます。


「村上神社」について、

かつてはおどり山古墳、まごく山、大殿山ともいった。

高さ3.6m、直径40mの円墳であったが、現状は神社境内地として周囲が削りとられている。

この古墳の北では、須恵器が採取されているためこの辺は古墳時代の集落地跡であったらしい。

この古墳は瑞穂区内に現存する数少ない古墳の一つでもある。

 (名古屋市瑞穂区史跡散策路より転写)


村上神社

創建 不詳。

おどり山古墳の墳頂に、神社は祀られている(第62代村上天皇を祀る)

おどり山古墳5世紀半の円墳とされる。

昭和初年の調査では高さ3.6m、直径40m、外堀が2mあり、須恵器が出た。

おどり山の言源は村境によくある神送りの場よりきている。

      ↓ 村上神社の前です
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)村上神社の祭殿
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↓神社境内から下を眺める…急な階段

 神社の北端より下をデジカメ…古墳の上に神社が祀られています。

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 ↓村上神社前の急坂

   ・・・道路は冬のスリップ防止の路面???

     アスファルトの路面とは異なる

     向こうの方面は八事丘陵です。

「洋ちゃん」のひとりごと

瑞穂台地と八事丘陵の間の赤丸の付近が村上町だと思います。
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2013年8月29日に追補。

「名古屋市瑞穂区の史跡」より

村上おどり山古墳

墳上に神社をまつる円墳で、昭和初年の調査では、直径40m、高さ4m、

周湟(おう・ほり)幅2mで原型をほぼ完全に残していたが後に土地区画整理等の結果社殿や付属施設を立派に建てて周囲を削って石垣を組んだためかえって全く旧観を損じた。

原形を破壊したのは、誠に残念である。

この古墳は葺(ふき)石も埴輪円筒も遺存せず発掘されたことも知られていない。

一名を「まぐろ山」ともいったという。