先日(15日)、
名古屋市千種区生涯学習センターの講座の一環で
千種区茶屋が坂一丁目地内辺りにある史跡を訪ねました。
※追記…その内容は、同日15日にブログしました。
訪ねた史跡で、
愛知県神社庁が管理する「神葬墓地」の境内に
明治~大正時代の尾張の歌人
「大島為足の墓石」を見つけました。
彼が、熱田神宮権禰宜を勤めていた事は知っていましたが、
お墓がこの場所にあるのは???でした。
私は、
若いころから尾張歌人の『短冊』の収集に関心があり集めています。
「大島為足」の短冊4枚収集しています。
紹介させて頂きます。
私の詠みです…誤読かもしれません
左) 野月 ; 大わしの とふ影みえて 信濃なる
すかのあらのの 月もの凄し(すごし) 為足
右) (題なし) かえりみれは 八坂のてらの あららき乃(の)
左) 海幸邊;寒しとも けさはおもはす 玻璃(はり)の窓
あけて雪見る 濱のたか殿 為足
右) 新年雪;立ちかへる ことしのそらに ふるゆきの
きよき御代にも あひにけるかな 為足
大島為足の略史
・歌人・尾張藩士。幼名は富次郎代々尾張藩士。
・冷泉為紀に歌の古式を習い、また植松茂岳に従い国典を、歌学を本多俊民、後に間島冬道に学んだ。
・廃藩後、熱田神宮権禰宜を務め、明治10年(1877)に東照宮の祠官となり、のちに新宮教愛知本部長に就任。
・和歌をよくし、連歌の詠会など歌道の興隆に尽力した。
・尾張における優れた歌人であり、国学者であった。
・大正4年(1915)歿、65才。
★屋敷は泉一丁目(旧表示 冨士塚町一丁目にありました。
(12,767歩)