佐屋街道を歩く…金山西にある道標~岩塚宿まで | 「洋ちゃん」のひとりごと

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昨日(10日)中村区某史跡の会の皆さんと、

佐屋街道…金山西にある道標~岩塚宿まで

ウォーキングしながら散策してきました。

 

佐屋街道について(ネットより引用)

江戸時代に東海道の七里の渡しの迂回路として開設・利用された脇往還で、佐屋宿は東海道宮宿と桑名宿とを結んでいた。

佐屋路(さやじ)とも呼ばれるている。

 

東海道の宮宿と桑名宿との間は七里の渡しを利用しなければならなかったが、天候次第で船が出ない日もあり、船が出ても安全とは言えない場合もあった。

船酔いをする人や、犯罪に巻き込まれやすい女性や子供の旅人からも七里の渡しは敬遠され、七里の渡しの迂回路として盛んに利用されたのが、この佐屋街道である

宮宿から佐屋宿まで陸路で六里を行き、佐屋宿から桑名宿までは川船による三里の渡しで結ばれていた。

宿場は東海道のものに比べれば小規模であり、渡し場のあった佐屋以外は本陣も一軒ずつしかなかった。


佐屋街道は1634年(寛永11年)、徳川家光の上洛に伴って開かれたものであるが、大坂夏の陣へ向かう徳川家康が佐屋を通ったとの記録もあり、それ以前から既に道としては存在していたと言われる。

開設された当初は万場、佐屋の2宿であったが、1636年(嘉永13年)に岩塚宿が、1647年(正保4年)に神守宿が設けられた。

1666年(寛文6年)には東海道の脇往還として幕府に公認されている。


明治期に入ると明治天皇の往来にも繰り返し使用された。

しかし、幕末から明治にかけての交通量の増大に応えられなくなったほか、佐屋湊の設けられていた佐屋川(現在は廃川)の土砂の堆積により川船の往来が難しくなったことから、1872年(明治5年)1月8日の太政官布告により新たに前ヶ須(弥富市)を通る新東海道が定められ、佐屋街道はその歴史を終えた。

 

総勢10人で金山駅南口で9時30分出発

平均年齢は70歳位?

岩塚宿に12時少し前に到着。

 

私「洋ちゃん」佐屋街道のこの区間を歩くのは始めて

デジカメ片手に、興味を感じつつ楽しくウォーキングしてきました。

 

デジカメしてきました

国道19号と尾頭橋へぬける佐屋街道の分岐点

高さ約1m50cm 幅30cmの花崗岩の四角柱の道標

 

宮から始めての一里塚五女子の一里塚ともいう

唯然寺の境内にあり

注)

「津島街道」と記載あるのは、この佐屋街道が出来る以前から津島方面へ抜ける道があっこと

あるいは、明治に佐屋街道が廃止され県道津島街道となったことによる???


中川生涯学習センター前に設置の佐屋街道の石碑と案内板
 

  ※綺麗にデジカメ出来ず…ゴメンナサイ

 

中川生涯学習センターの西、中川運河の西に立つ

明治天皇御駐蹕(ひつ)之所の石碑

 明治元年(1868)9月26日東幸

  同年      12月18日還幸

 明治2年(1869) 3月16日再幸

  還幸の際、御小休所となる。

 

長良郵便局の西にる

明治天皇御駐蹕(ひつ)之所の石碑
 

 明治2年(1869)3月16日再幸

 再幸の際、御小休所となる。

 ※明治天皇は2回佐屋街道を通行している事より幕末維新期には

  かなり利用者は多かったと思われる。

 

(付記)

佐屋街道の筋、烏森郵便局南へ少しの場所に、

茅葺きの屋根の家があり。

 

岩塚に入り佐屋街道筋に「宝塔」があり

 

遍慶寺(岩塚城跡)

三門の前に「岩塚城跡」の石碑が立つ


遍慶寺の境内にある巨木

 右)クロガネモチ

 左)イブキ

 

(パンフレットをスキャン)