塩の道(瑞穂区)を探る…案内人を務めました | 「洋ちゃん」のひとりごと

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先日(6日)南生涯学習センターが

 塩の道(塩付街道)を探る講座を設定され

瑞穂区内の塩付街道沿いにある案内を瑞穂区某史跡案内の会に依頼される。

私「洋ちゃん」はその会の会員です。

 

コースの概略図です
     
 

 

仲間7人程で案内役を務めてきました。

 当日は雨天で足もとが悪いにもかかわらず参加者は35名程

案内の内容は瑞穂区史跡散策路を引用しながらブログしました。

 

地下鉄 新瑞駅に13時30分に集合
  

   左端に皆さん集合・・・私も資料片手に準備OK


新瑞交差点東方面、

落合橋(山崎川にかかる)にて『塩付街道』について案内
  
塩付街道は、

・江戸時代の中頃まで、南区本星崎町一帯では、さかんに塩を作っていた。

・ここでとれた塩は、千種区古出来町あたりに集荷され、遠く信州(現在の長野県)まで、俵に詰め

 運ばれたといわれている。

・本星崎町から古出来町まで約10kmが塩付街道と呼ばれる。
・俵に詰めて塩を馬で運んだ「中馬(ちゅうま)」といわれる運送業者が往来していた。

 

瑞穂陸上競技場の西端にある『大曲輪(おおぐるわ)貝塚』について案内

大曲輪(おおぐるわ)貝塚は、
・昭和14年6月に発見され、16年に国の史跡に指定された。

・55年瑞穂陸上競技場改築工事の時、縄文時代の人骨がほぼ完全な形で出土し、実物は名古

 屋市博物館に展示されている。

・瑞穂陸上競技場西側には発掘された当時の形の複製が展示されている。

 

瑞穂陸上競技場の東側にある『あゆちの水(伝承地)』について案内
    
あゆちの水は、

・尾張の名水の一つで、万葉集に詠まれた「小治田の年魚道の水」はここであるという説がある。

・直径1m、深さ3mほどの井戸で日照りが続いても水が枯れなかったと言われ、多くの人々が

 利用していた。

・戦後は荒れ果てたままになっていたが、昭和52年に地元の有志の人たちの協力により現在の

 形になった。

 

瑞穂陸上競技場の北方面、左右橋のたもとで案内
      
★この場所では私「洋ちゃん」が案内を担当しました。

 

先月6月8日にタイトル

 「瑞穂区の史跡巡り(その6)瑞穂区左右田橋付近 の歴史(昔、鼎池・新雨池があり) 」

としてブログしました。

こちらも是非ご覧ください。

 

・昔、この辺りの山崎川の周囲には池や湿地帯が広がっていた。

・現在は、絶滅危惧種となっているサギソウ・シラタマホシグサ・モウセンゴケが生えていた

 

江戸時代、「秋萩」の名所として知られていた場所で、

 尾張名所図会には、その風景画が描かれています。
       
池のほとりに、可憐な秋萩がいっぱい咲き、多くの人々が見物に訪れています。

 

ここには、二つの灌漑用の池があった。

北には鼎池、南に新(雨)池です。
               
             大正13年の地図

・昭和10年代に、二つの池は埋め立てられゴルフ場に造成された。

 当時、山崎川には多くのゴルフボールが落ちていたとの由・・・。

・戦争が始まると(昭和18年頃)食糧自給のためにゴルフ場は畑になる。

  (瑞穂運動場も畑となる)

・戦後のこの周辺は、のどかで水田が多くありカエルやホタルがたくさんいた

・その後、宅地造成等がされ現状に・・・。

(追記)

この辺りは、造成工事により塩付街道筋が不明になっている。


村上神社(おどりやま古墳)を案内
    
村上神社(おどりやま古墳)は、

・かつてはおどり山古墳、まごく山、大殿山ともいった。

・高さ3.6m、直径40mの円墳であったが、現状は神社境内地として周囲が削りとられている。

・この古墳の北では、須恵器が採取されているため、この辺は古墳時代の集落地跡であったらし

 い。

・この古墳は瑞穂区内に現存する数少ない古墳の一つでもある。

 

汐路町の道沿いに残る

 クロガネモチ・松は、昔の塩付街道の趣きを伝えている。

         
         名残りの松

 

東栄町にある馬頭観音を案内
            

           
      
・塩付街道沿いに祀られていたもので、道中の無事を祈る当時の人々の面影がしのばれる。

・中馬的交通時代の大きな特色で、「中馬」とは、江戸時代の馬稼人がつくった同業者の組合で

 賃馬、中継馬などが語源といわれている。

・道端に馬頭観音が祀られているとその下には「馬接待水」があり、馬への思いやり、生活の知

 恵がしのばれる。