先日、北区金城三丁目の金城小学校の位置が城址とされる、
「田幡城」を訪ねました。
(現在、私「洋ちゃん」が楽しんでいる古城巡りの一環で訪ねました)
・田幡城は
現在の金城小学校一帯に築かれ、当時は林泉寺の境内にお城があったとの由。
・金城小学校及び学校の東側にある
林泉寺の回りを散策するも遺構らしきものは見当たらず。
※金城小学校の東端に「林泉寺跡・旧田幡城跡」の石碑だけが建っている
そうですが、構内に入れず拝見することは出来ず。
…後日、再訪する予定でいます。
田幡城について、
・天文年間(1532年~55年)に清洲城の前衛基地として越智信高が築城。
・規模は不明。
・越智氏は、伊予国(現・愛媛県)出自の豪族で、
美濃国(現・岐阜県)安八郡を経て尾張にやってきたとされる。
・信高の子は姓を『林』に変え、林弥助と名乗り、狩宿村に住み狩宿城を築く。
★この林弥助の子、林佐渡守通勝は信長の家老職を努めたほどの織田家の重臣である。
林通勝は織田家家督相続の際、
信長の弟・信勝に味方し稲生ヶ原合戦後、林氏に関係があった田幡城は廃城になる。
(付記)
稲生の戦い(いのうのたたかい)について
・弘治2年(1556年)に、現在の名古屋市西区で起きた戦いである。
・尾張国の有力武将である織田弾正忠家で起きた、織田信長とその弟織田信行(信勝)との
家督争いから起きた戦い。
・稲生合戦、稲生原合戦とも呼ばれる。
・稲生は、尾張国春日井郡の庄内川に近い場所にある地名である。