先日(7日)
日進市 にあります‘岩崎城”を訪ねました。
(今、私「洋ちゃん」の楽しんでいる、古城巡りの一環で訪ねました)
岩崎城について
享禄二年(1529)頃に、織田信秀(信長の父)によって築かれたお城。
後に松平清康(徳川家康の祖父)氏が岩崎城を奪いましたが、天文四年に起こった「守山崩れ」の後、丹羽氏が入城し、以来丹羽氏約60年の拠点となりました。
※ 「守山崩れ」については、昨年11月28日にブログしましたタイトル「守山城跡・宝勝寺・白山神社」をご覧下さい。
天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦時、
秀吉方の武将・池田恒興が、家康の本拠・三河の岡崎城を攻撃するために 「三河中入り」という作戦で小牧を出発し岡崎に向かう、途中、池田恒興 軍は岩崎城の近くを通過しようとしました。
★「三河中入り」の作戦とは、
家康軍に見つからないように、家康の本拠地である岡崎城に攻め込み、家康を岡崎に帰らせることで家康軍の戦力を減らし、秀吉軍が有利になるようにする作戦。
しかし家康方であった岩崎城主丹羽氏次は家康の元に出陣していたため、まだ16才の弟、丹羽氏重が留守を任されていました。
そこへ長久手を通って、岩崎城の近くを通過しようとした池田恒興軍部隊に岩崎城から丹羽氏重が出撃し戦いを挑みました。
これを「岩崎城の戦い」と呼ばれています。
結果、丹羽氏重軍は全滅。
岩崎城も落城しましたが、これが時間稼ぎとなり池田軍は家康軍の追撃を受け壊滅し池田恒興、池田元助(恒興の嫡男)、森長
可(森蘭丸の兄)が戦死しました。
家康は丹羽氏重の功績をたたえ、岩崎城の城主であった氏次は、その後家康の元で活躍し、関ケ原の合戦後は現在の豊田市の一万石の大名になる。
「城の概要」の看板が設置してありました。
左)岩崎城址公園の案内図
下)城内にある記念スタンプ
左)岩崎城です。
当時の堀跡が整備され残されていました。
「水琴窟」を
楽しんできました。
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