先日、
蟹江町にあります‘蟹江城跡”を訪ねました。
案内看板に記載
「蟹江」という地名の由来は諸説あるが、
川の河口に多くの‘蟹”が生息していたためついたという説が有力との由。
蟹江城について、
・このあたりは「東海の潮来」と呼ばれるように、土砂が堆積してできた
低湿地帯で人々が住み始めたのは中世期以降です。
・戦国時代(室町中期)に織田氏の勢力下にあった、北条時任』が
伊勢湾に臨む・戦略上の要衝地として築城。
・以後、軍事上の重要な拠点としてこの城をめぐる戦いは何度も行なわれた。
・特に、天正12年(1584年)6月の蟹江合戦は激しく大きな戦いでした。
・この戦いは、長久手の戦いで徳川家康に大敗した羽柴(豊臣)秀吉の雪辱戦で、
・秀吉は尾張における制海権を確保し、織田信雄と家康を離反させるため決行。
当時の蟹江城主、佐久間正勝が所用で伊勢に出掛けた留守に、家臣(城代)前田与十郎長定が滝川一益(秀吉派)に通じ、一益は与十郎長定の招きに呼応して蟹江城に兵をいれるも、織田信雄・徳川家康連合軍が大軍をもって反撃、包囲し圧勝した戦いです。
※蟹江城主佐久間正勝は織田信雄方でした。
この戦いについて、
「賤ヶ岳の戦いは太閤一代の勝事、蟹江の軍は東照宮一世の勝事なり」
と評価されている。
この戦いを機に、蟹江城は廃城となり、
翌年(天正13年)の大地震に崩壊されてしまう。
(付記)
今年10月25日にタイトル「‘小牧・長久手の戦い”の講演会」でブログしました。
こちらも是非ご覧ください。
洋ちゃんのひとりごとです。
小牧・長久手の戦いについて、TVの場面・書物等でほとんど取りあげられていません。
・信長、秀吉、家康が関係する戦いです。
・お城を訪ねたりして、この戦いについて勉強していますと多く語られていない
(紹介されていない)部分を知ることが出来、自己満足しています。
・最近、一人で
各地の、お城を訪ねたりしてブログで紹介させて頂きながら楽しんでいます。
・皆さん、よろしくお願いします。
蟹江城跡です。
モデルは
私「洋ちゃん」です。