一昨日(27日)
守山区にあります
‘守山城跡”
及びその周辺にあります
「宝勝寺」・「白山神社」
を訪ねました。
‘守山城址碑”の場所を見つけるのに一苦労。
左の土塁の上に
城址碑があります。
守山城跡の案内看板です。
守山城址碑です。
守山城址碑の土塁の上より東谷山の方向を望む。
守山城について、
平山城で、規模は東西に約58メートル、南北に約51メートル、四方には堀 がめぐらせてあったといわれている。
1521年 (大永元年)今川氏豊が那古野城を築いた際に小幡城 ・川村城に対応して松平信定が築城した。
1526年(大永6年)連歌師宗長 が守山城の館で松平信定新知行 祝の千句連歌会を催し「花にけふ風を関守山路哉」と守山を詠んだ発句が宗長手記 ・下巻に記されておりこれが「もりやま」が「守山」と記された最初の記録である。
天文4年(1535年)三河の大半を手中にした松平清康(徳川家康の祖父)は宿敵・ 織田信秀の尾張を攻略する為、この城に入城。
その翌朝、城内の馬が暴れ人々が騒ぎたちました。
この物音を聞きつけた清康の家臣・阿部定吉の子・弥七郎はかねてから父に清康への逆心ありと噂さがあった為、父が成敗されると思い込み、先に清康を斬り殺してしまいました。
しかし、その場で弥七郎も清康の家臣・上村新六郎に斬られてしまいました。
後に、歴史家達はこの松平家内部騒動を『守山崩れ』と呼んでいます。
その後、桶狭間の戦いの後廃城となる。
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宝勝寺(守山城跡のすぐ北側にあります)
寛永14年(1637年)松平清康の霊を弔うために守山城跡に建てられた。
清康の位牌を安置している。
守山崩れで、多くの松平家の家臣が死にその死者達の供養の為に建てられたお寺です。
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白山神社(守山城跡の場所を捜していましたらこのお宮さんがありました)
※ 守山史跡散策路の説明文をスキャン
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守山城の略史