昨日(20日)
名古屋市博物館で開催中の「芭蕉展」に伴う行事の一つ演題、
『蕉風の流行ー尾張の場合』の講演を聴いてきました。
講師は、服部直子先生です。
(服部先生は名古屋の俳諧史の第一人者として活躍されてみえます)
松尾芭蕉 (寛永21年(1644)~ 元禄7年(1694))、51歳で死去。
当初は宗因に心酔し、談林派に加わりながら俳人としての地位を確立していきますが、 次第に談林派の俳諧に飽き足らなくなり、独自の俳諧の道を歩みます。
俗世間を離れ、深川の草庵で暮らしながら、独自の俳諧の作風を追求していきます。
宗因に代わって、芭蕉が俳諧の世界の中心人物になっていくわけです。
「蕉風」という作風を作り出しました。
芭蕉の『蕉風』が尾張(名古屋)で流行した流れの講演でした。
(要旨です)
・芭蕉は1684年(41歳)の冬、
「野ざらし紀行」の旅の途中、初めて名古屋の俳人たちと連句の会を開く。
・この会に参加した五歌仙の句が
「冬の日」(1684年刊)に収められており尾張と芭蕉の交流が緊密に。
・この歌仙に参加した人は‘城下で富裕な町民”がほとんど。
・特に、坪井杜国という裕福な米穀商が中心。
・以後、露川―越人ー木児―巴雀―等々の
当時の著明な尾張の俳人が「蕉風」の流れを維持。
・芭蕉は江戸と上方の往復途中に
東海道の鳴海宿で度々、俳諧の会を開く…鳴海蕉門の中心に
・芭蕉の死後鳴海俳諧の中心となったのは下里知足を出した下郷家である。
・下郷家は千代倉の屋号の酒造業者で
鳴海蕉門を長年顕影…芭蕉忌追善句会催す。
★尾張七代藩主 宗春(1696~1764)は風俗繁栄の施策を奨励。
尾張の「蕉風」が流行する基ともなったのでは。
江戸時代、尾張俳諧の中心として著名な
横井也有(1703~1783)
久村暁台(1732~1792)
井上士朗(1742~1812)
博物館の
「尾張名古屋は士朗でもつ」ともじった書状。
↓2021年12月7日に追記する