二十四輩 第廿二番戸森山 専應寺(せんのうじ) | かかしんぼうぶらり散歩

かかしんぼうぶらり散歩

~今日はどの辺まで行こか~
行けると所まで行って見るか

 

 

 かかしんぼうぶらり散歩

 
 

生駒山

今朝も綺麗なご来光が撮れましたが、

だんだん曇って行きました。

夕方は青空が見えました。

 

 

野崎観音を下山してお隣にある

「戸森山 専應寺」(ともりやませんのうじ) に

立ち寄りました。

住所:大阪府大東市野崎2丁目9-50

野崎観音の竜宮門の石段を下り高野街道を

自転車に乗って行きました。

道は赤い線の所です。

下山して15分位で到着しました。

なおこの「戸森山 専應寺」は一度投稿

しているのでリンクを貼りました。

よかったら見てください。

戸森山 専應寺

 

 

高野街道です。

野崎観音から自転車に乗って走って

来ました。

途中左に専應寺へ上がる道があります。

そこを左折します。

 

角に下の案内標柱があります。

 

高野街道から山側に上がります。

地図を参照

二十四輩 第廿二番戸森山 専應寺への標柱です

 

この道を上がると突き当りに太子堂の山門があります。

坂道はきついので自転車を降りて押しながら進みます。

 

前方には山門が見えます。

太子堂道と彫られています。

この山門の向こうには太子堂があります。

以前のブログにも載せています

ここからは入門できないのでお寺の山門に回ります。

以前はこの大きい門の左端に出入りできる隙間が

あったんですが今はありません。

しかたなく右の塀に沿ってお寺の山門に行きます。

この塀の横を自転車を引いて歩いて行きました。

道はさらに細くなり自転車を通るのが精一杯です。

 

やっと通り抜けて広い道に出ました。

ほんとに狭い道でよろけると横の側溝に

落ちそうです。

なんとか通り抜けました。

さらに左に上がって行きます。

到着しました。

ここが専應寺の山門です。

門は閉まっています。

入口に「瓦が落たりして危険ですので

大門は閉めています。

南側通用門からお入りください」と

貼り紙があります。

こちらが通用門側です。

右は駐車場があります。

自転車は駐車場の隅に止めました。

左が山門、正面が本堂です。

山門の壁が剥がれています。

以前訪問した時も剥がれていました。

修理はいつするのでしょうか。

屋根の下の彫刻です。

柱の角辺りは枓栱(ときょう)というんでしょうか。

建築用語を調べると下記のように出ていました。

 

山門の梁の上に猫の目が光ったようなの彫刻があります。

何でしょうか。

(誰かのブログにも同じ様な事が書いてありました。)

最後に獅子のようでしたとコメントを残してます。

江戸時代の人々が野崎観音(慈眼時)へお参りする時は必ず

このお寺にお参りしてそれから野崎観音にお参りしたそうです。

浄土真宗本願寺派の阿弥陀如来を本尊とする寺院です。

本堂は閉まっているので入れません。

本堂の梁の上にいる動物です。

本堂入口の階段です。

廊下

板や柱がかなり古くなっています。

本堂の前の銀杏の木です。

実が落ちずに枝についたままです。

これは実が落ちずについているんですよ。

こんなの初めて見ます。

 

大東市教育委員会の立てた案内板があります。

専應寺と大坂城の事が書かれています。

ここでは専應寺の部分だけ載せました。

専應寺と大坂城

 

専應寺は、浄土真宗本願寺派の阿弥陀如来を本尊とする寺院です。江戸時代中期の建築様式をもつ本堂・聖徳太子像を安置する太子堂・鐘楼・山門・庫裏(くり)があります。

 

創建は鎌倉時代後期、親鸞の直弟子二十四輩の一人、唯信(ゆいしん)とされています。また延宝(えんほう)、八(1680)年鋳造の梵鐘の銘文によると、第九世正了(しょうりょう)の時代(15世紀末から16世紀初頃)に寺院の基礎が確立し、一旦、戦国時代の戦乱で荒廃しましたが、江戸時代の初めに再建され、以後、江戸時代中期までに本堂や太子堂が整備されたと伝わっています。

 

太子堂は、聖徳太子自作と伝わる教養象(父用明天皇の病気平癒を

祈願する太子16歳の姿)で毎年春秋の彼岸に公開され、多くの参拝者

を集めていました。

 

野崎まいりもこの太子堂に詣でてから、北の野崎観音(慈眼寺)へ向かうのが一般的な道筋であったとされています。

(境内の案内板より一部記載)

 

長くなってしまいした、

今日の紹介はここて終わりとします。

この続きはまた明日とします。

 

ご訪問ありがとうございました。