すべての表現者の行き着くところは。
あのドフトエフスキーがそうであるように。
自己の"神との対話"であろう。
(しかし、ほとんどの表現者が、そこまで到達するまでに、「なかったこと」にしたり「見て見ぬ振り」をしたりする。それは、作り手としての自分を、発狂寸前にまで追い込む作業だからだ。そういう意味では、"神との対話"まで進めるのは、ひと握りの"天才"の特権なのかもしれない)
そして。
ラース・フォン・トリアー監督は。
常に男女の業苦を通じて。
(地球上の動物であるがゆえに、人間には男と女が存在するからだ)
自己の"神との対話"を突きつめてゆく。
"天才"にふさわしい映画作家の一人だ。
この『アンチクライスト』では。
己れの鬱状態からのセラピーを兼ねつつ。
(これは、あのポール・ヴァーホーベン監督もよく口にしている。ヴァーホーベン監督の場合は、常に己れの"悪魔"との戦いが、その作品の根底にある)
敢えて、剥き出しの暗黒面へと踏み込み。
正面切って、その相克を描くことで。
"神との対話"をキープする。
シャルロット・ゲンズブールも、ウィレム・デフォーも。
監督のリクエストに全身全霊で応じて、渾身の演技を披露している。
まさに肌寒くなるほどの傑作である。