今の『学校』教育方針のようなものって明治時代に創られたものなんだけれど、なんで、これだけ時代が変わって社会システムも何もかもが大きく変わってきてるのに当時の教育方針がほとんど変わらないで、そのまんま残っているということが不思議でならないんだよ。
ボクの知らないところでは少しは変わってきてるかもしんないけど、基本的に大差ないんじゃないかな(笑)
しかも教育方針そのものが明治時代に流れ込んできた西洋的思想、西洋哲学が源流なんだけれど、それって、今より未来に価値があるって思想なんだよね。
単純な話し、たくさん勉強して、いい学校に進学し、いい就職先につけば安泰だってはなしで、それって日本人が大好きな『貯蓄』や『保険』に繋がる思想で、現状のこの社会において、それが果たして、なにかを生み出すことのできるエネルギーになるのだろうか?
もうすでに破綻してるじゃん(笑)
この先の不安な未来に対して我慢して頑張って働いて、お金ためるだけ貯めて不安な未来よ来い!!って・・
それが悪いって話じゃないよ。
もしそんな未来がこなかったとしたら、未来そのものがなかったとしたら?って考えるとゾッとするんだけど、それでも教育が責任とってくれないじゃない。
科学も発達していろんな事が発見されてきたはずだ。
歴史を学んでわかったことがある。
明治といまとじゃ生活や社会がってか、国の在り方や世界観がインターネットや高度なテクノロジーによって、まるっきりぜんぜん違うという当たり前の事実。
インターネットの発明によって、いろんな弊害はあるかもしれないけど、国と国そのものの境界線が曖昧になり境界線そのものは無かったという事実を知り国と国という観念の崩壊。
アメリカ人や日本人やイギリス人という人種があるという幻想からの目覚め。
つまりは、常識の崩壊というものが、すでにあちこちで起きてしまっているという事実。
狭い枠の枠が実はないんじゃね?
これバレたらヤバイんじゃね?
いや、バレてんじゃん。
そうだとしたら、まずは教育を変えなきゃしょうがないじゃないかって、オレは考えちゃう。
この幻想から覚めるには、なにも知らなかったということを受け入れる覚悟も必要かもね。
最近でこそ「個性を大切に」なんて言ってたりもするけど、そもそも「個性」がなんなのか知らないやつの適当なセリフにしか聞こえないんだよね。
または『個性尊重戦略』という名の新たな育成法とか(笑)
授業や勉強が嫌いで、協調性というものに馴染めないというその個性も必ず偏差値という物差しの数値で数値化されて評価されるんだろ?
それと生きることや生きているということと何の関係があるんだろう。
確かに自分を押し殺し国に従順、社会からのはみ出し者というレッテルを貼られない常識人という名の勲章で周りからは、分別のついた大人として評されるかもしれない。
しかしである。
社会とはズバリ幻想である。
一人ひとりの価値観や観念を通して見た世界には確かに社会や国というものが見えるかもしれない。
だからこそ一人ひとりは違っていてしかるべきで、違う世界を見ているからこそ、そこから新しいアイデアが生まれ、そのアイデアが還元された先に社会や国というものがあるという体制にしておいた方が、こっから先は都合がよくありませんか?
まっ、いいや(笑)
このくだりとはなんの関係がないかもしれないけど、今日も一冊の素敵な本をご紹介します。
超シンプルなさとり方
人生が楽になる
著者
エックハルト・トール
出版社
五次元文庫
わたしたちが一般に「人生」と呼んでいるものは、厳密に言うと、「人生の状況」です。
それは「過去」と「未来」という、心理的時間の中に存在しています。
あなたはいま、
「なんて不幸なんだろう」
と感じているかもしれません。
ても、あなたがほんとうに
「いまに在る」なら不幸でいることなど不可能です。
過去に、あなたの思い通りにいかなかった出来事があったのでしょう。
それで、あなたはその出来事に抵抗し、
「すでにそうであるもの」から「いま」目をそむけているのです。
希望は、たしかにあなたを前に進ませるかもしれませんが、あなたの意識を未来にくきづけにしてしまいます。
未来に焦点を当てつづけると、「いま」
への拒絶もつづき、したがって不幸も永遠になくなりません。
ここで、「人生の状況」のことは、ちょっと忘れて、「人生そのもの」に目を向けてみてください。
「人生の状況』は、時間の中に存在します。
あなたの人生は、「いま」
です。
「人生の状況」は、「思考の産物」です。
あなたの人生は、「現実」です。