記憶の刻印 | 光の記憶 魂の記憶 まさよのブログ

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不思議なこと、光のこと、愛のこと 神さま綴り 

わたし達は 日々を生きながら たくさんの記憶を残しております。


うれしかった記憶 悲しかった記憶 何かに拘っていた記憶


生きていたその記憶は たとえ体を手放し亡くなったとしても 物にも 


場所にも 建物にも そして時間にも 刻一刻と刻まれ残されています。


この 「時間」 という概念は 今は理解できないでしょうと光に言われますが


わたしなり理解したと思うことをお話いたしますね。



わたしは自分の家が大好きです。 


とくにセッションで使うリビングが大好きです。 


わたしが亡くなったとしても わたしのその思いの記憶は 視る人がみたら


わたしの姿を映し出して視るのでしょう。 



大好きだったリビングで わたしの姿を残像として視るかもしれません


けれど そこにわたしの魂はおりません。 


記憶は残ったとしても 魂は残れないのです。


だけどきっと人は わたしの残像を 霊とか お化けとか成仏していない


とか言われるかもしれません。


わたしたちは たくさんの恐怖で自分を縛ると 何かに怯えていると顔色も


くすんで覇気がなくなります。 


自分という神さまを 御霊を縛り付けることは輝きを失うのかもしれません


それをきっと人は 何かが取り憑いていると思われるかもしれませんね。


鬱と思われている方や 精神を病まれていると言われている人も よく霊の


のせいにされてしまいますが、それも霊ではなくて もっと深い根っこの


記憶からきているものです。


精神を病むという言い方も 霊という言い方もわたしは心地よくありません。


人は自分を卑下する気持ちと同じくらいに 自分だけは何か強いものに


確かな者に守られていると そのように思います。



そして輝きを失った人を見ては 何か憑依しているという言い方をされますが 


それを言う人も、自分の中にある姿を相手に見ているだけなのです。



わたし達は 体に窮屈に収まっている訳ではなく 体から大きくはみ出した


エネルギー体で そのエネルギーは 今の自分(精神) 過去世の記憶 


光のガイドたちも 常にそこに一緒におります。


わたし達は 体を手放したと同時に ガイドたちと一心同体だったと思い出します。


そして記憶の習慣 記憶の心残りを終えたならば 自分の選んできた人生の


お役目が終わったことでガイドと共に還ります。


お役目は人それぞれにあります、必ずいい事をするだけがお役目ではなくて


悪いと言われることをする人も それを選んできたお役目なのです。


悪いことをする人は それをする事で それをわたし達に気付かせて


くれたりします。


今世 自分が何を選らんで来たかで違いますが、お役目とか使命とか


いうと 善い事だけと思われがちですが、悪いと言われる事をする人にも


同じように人生のお役目があるのです。


事故や災害に合われて亡くなられる方も 運が悪かった訳でも守られて


いなかったから命を落とされた訳でもなくて それもやはりお役目で 体を


手放したとき あーそうだったと自分の選んだお役目を思い出されるのだと


思います。


前に来て下さった方が 「兄弟で生まれて来れなかった水子が 生きている


兄弟を羨ましがって 婚期を遅らせたり 幸せの邪魔をしている」と霊能者さん


に言われたそうです。


わたしは 生まれて来なかったそのお役目の魂さんを 水子と呼ぶ


言い方が苦手です。


同じ 光の魂さんに対してとても残念で悲しい言い方だと思います。


よく水子が何体付いているという言われ方をされますが 光やガイドたちは 


水子という言い方もしなければ 何体という言い方も致しません。


そもそも水子はおりませんし 生きている人を羨ましがるということも


ありません。


生きている事が最大の喜びで 亡くなることは 罰か何かの報復だと思って


いるのは わたし達ですね。


長年 わたしたち人が作りだした概念であり妄想ですね。


光からみたら 生きることは楽しいことよりも辛くて大変なことを知っています。


労わるように思うことはあっても 妬ましくて邪魔をすることなど有り得ない


のです。



わたしたちは ご先祖さんの供養をしないと罰が当たるとか 何か悪いことが


起きると思っております。そのように長い間 思い込まされてきました。


わたし達の魂には 此処からここまでというように 時間の区切りも


区別もありません。


皆さん今世だけのご先祖さんを大切にしておりますが、それでは前世の


ご先祖さんは 大切にしなくてもよろしいのですかと そのように思って


しまします。


日本にだけ生まれている訳ではなくて 他の国で生きていた頃のご先祖さんに


はどのように供養されるのですかと思うのです。


わたし達は今生だけではなく 永遠と 魂を 命を 記憶を紡いで来ております。


命を頂きながら 自分を生かしております。 それをただ繰り返しております。


いまわたし達は生きております 今は忘れておりますが、かつてはどこかの


国で生き そしてその命を終え わたし達もまた何方かのご先祖さんでしたね。


あなたも わたしも 多くの時代 多くの場所でご先祖さんでしたね。


亡くなっていても 生きていても 永遠に続く魂ですね。


自分を大切にすることが 神を 先祖を 魂を敬うことだから この宇宙に 


地球に 動植物に 亡くなられた人に 生きている人に感謝することが 


万物への愛であり 供養であるとそのように思います。




セッション中や レイキを伝授しているとき 亡くなられたおばあさんとか


おじいさんが うれしそうに出てきてくれます。


けれど 今はもうその姿ではないので 光の中からふっとお顔を見せますが 


くっきりはっきりの顔ではなくて ぼんやりと見せる時があります。


亡くなられて時間が経過していると それが生前記憶している自分の


精一杯の姿なのだと思います。







神さまは いろんなところにメッセージを散りばめていて それを見つける事は


なんて楽しいのでしょうと思います。


ウルトラマンビームや 悟空のカメハメハーもそうですが


ウルトラマンビームを考えた人は、指から何かが出ていると知っていたのか 


何か閃きをもらって作り出したのか どちらにせよ光の存在が関わっていた


と思います。



千の風になってという歌が流行りましたが いまこのようなお仕事をさせて


頂いてわかったのですが 「私のお墓の前で泣かないで下さい そこに


わたしはいません 眠ってなんかいません」 という歌詞も 神さまが 


わたし達に下さったメッセージだと思っております。


だから沢山の人の耳に届いたのだと思います。

「千の風に千の風になって あの大きな空を吹きわたっています。」


風にも 空にも いまこの瞬間にも わたしたちの記憶は 刻まれて


いるのだとそのように思います。


時間に区切りがないように 記憶にも区切りはないのですね。









先日秋田からいらして下さった方は 前から何度かお問い合わせを頂戴して


おりました。



その方は いろんな人に視てもらっていました、近くの人から遠くの人から 


たくさんの人に視てもらっていたみたいでした。


だけどいろんな人を巡るのは きっと自分の中で 答えがわかっていない


からなのでしょうね。


蓋つきのお茶碗をいくつか持っていて でも蓋がバラバラになっていて


「この茶碗の蓋は これ」 といろんな人が それぞれに違う蓋を言われる


のでしょう その都度あれやこれや蓋を合わせてみるけれど、気が付くと


やっぱり また他の蓋を探し始めてきたのでしょうね



「いろんな人に会ったけど まさよさんが言われたことが一番納得しました


しっくりきました」 と言って下さいました。 


とても有難いことです、そういう言葉を頂戴する時 一緒に宿題を解いた


気持ちになってうれしくなります。ありがとうございます。



だけどね 本当はわたし達は 蓋が見つからなくても良いのかも知れません


見つかったら見つかったで それは人の気持ちは楽になるのかもしれません 


でもね 見つからないまま生きていく事も 本当は大切な事のようにも思うのです


だから わたしがしている事は 本当に必要なことなのだろうかと ふと考える


時があります。









今日 空がとても高い日でした 秋風が吹いていた日でした。


今日も1日 感謝でありがとうございます。