知っているという事 | 海南島のヨハネの黙示録

海南島のヨハネの黙示録

キリスト教の元宣教師・海南島のヨハネさんの不思議な体験の数々

2008年 5月8日

つい先日、面白い事を発見。

中国人2人をプールに連れて行った。

若い方が中年の人に泳ぎを教えると言う。

それで私は、若い方に

「いつ泳げるようになった?」

と聞いたら、

「泳ぎ方は習ったから知っている」

という。

そして全く初めての中年に教えているが、私は、

「危ないからプールの真ん中へ行くな」

と注意したのであるが、案の定、溺れかけて水を飲んでしまった。

それで若い方に泳がせてみたら1~2mしか泳げない。

とても泳げるというものではない。

しかし言うことは、水泳コーチの言うことと同じである。

この場合、若い方は泳ぎを知っていると云うべきであろうか。

普通、知っていると言えば、泳げる人を指すと思うが…。


【管理人のコメント】
これを読んで思い出したのは、サンダー・シングがよく言っていた言葉です。「神を知る」という事と、「神について知る」ことは、全く違うと。神について知っているだけの人は、単なる知識に過ぎません。一方、神を知っている人は、体験的に神がどんな方であるかを知っているのです。この違いは大きいですね。彼の講演録から面白い話があったので、貼り付けておきます。


昨年、チベットにいた時に、わたしは驚くべき話を聞きました。

ある少女がイエス・キリストについての話を聞いて、主を愛するようになりました。

師にあたる仏教の僧はこの少女を憎むようになり、ある日、まだ十三歳のこの娘は三日間、水も食物もない部屋に閉じ込められました。

彼女にとってこれは苦しいことでありましたが、自分がイエス・キリストを信じ、そのために独房に入れられたことについては苦しいとは思いませんでした。

彼女はその間ずっと祈り続け、幸せな気持ちになり、イエス・キリストにいい知れぬ歓びを覚えるようになりました。

三日経って、僧侶が独房の中に足を踏み入れると、少女がとても幸せそうなのに驚きました。

僧の話によると、彼女は、

「自分はキリスト信者になった」

と言ったそうです。

「キリストについて何を知っているのか」

と僧は聞きました。

すると、少女は、

「あまり知識はありません。でも、一つはっきりいえることがあります。わたしはキリストを知っているのです」

と答えました。

「愚かな娘だ。おまえは文盲ではないか」

と僧は言いました。

これに対して、娘はこう答えました。

「わたしは、親よりもよくあの方を知っています。わたしは親を愛しています。親からも愛されていますが、わたしはあの方を知っているのです。イエス・キリストはわたしの中にいてくださり、この世界が与えることも、取り去ることもできない生命を与えてくださいます」。

僧は、

「愚かな娘だ」

と繰り返すと、また二十四時間、少女を飲まず食わずのまま独房に監禁しました。

それから、また、

「居心地はどうか」

と声をかけました。

すると、彼女は、疲れているどころか、賛美歌を歌い、喜びでいっぱいでした。

それから、また二日、三日と監禁され、 三日目に戸を開けると、この読み書きのできない少女は、相変わらず歌い続け、驚くばかりの平和と歓喜に満たされていました。

ラマは告白しました。

「あなたこそ、わたしの師匠だ。わたしは老いて、あなたはまだ十三歳の子供だが、わたしはあなたの弟子だ。あなたは、わたしの持っていないものを持っている」と。

イエス・キリストを見つけるのは、年や学問によるものではありません。

この少女は説教はできませんでしたが、僧侶の知らないものを見つけていたのです。


関連記事

質問「終わりの日とは、聖書の記述でいつからいつまでのことですか?」の記事に管理人が貼り付けたサンダー・シングの講話についてご紹介頂きました。オニさんありがとうございます!(管理人)







-------------------------------------------------
このブログはブログランキングというものに参加しています。下のボタンをそれぞれクリックして頂くと、ランキングが上がります。ランキングが上がるとこのブログの読者も増えると思いますので、どうぞご協力をよろしくお願い致します。


スピリチュアル ブログランキングへ


キリスト教 ブログランキングへ