関西に来て一年位の頃、車を運転していて、交差点で信号が変わったので、急停車した処、後続の車2台に追突された。
私の車は一寸した傷で修理を必要としない位であったが、どう言う訳か、後続の2台は大破に近い状態であった。
幸い人身事故は無かったが、事故調査の警察官いわく、
「大阪では信号が変わった直ぐには皆んな交差点を通過しているのだから、法規を厳格に守ると事故が起きる。あなたも皆んなと同じ様にしたらどうですか?」
と言われた。
勿論、私は無罪であり、何の責任も問われなかった。
その後しばらく信号が黄になっても状況に応じ交差点を通過していた処、今度は信号無視でつかまった。
罰金は当時でも最低ランクの3千円であったが、私は立腹して裁判する事にした。
その後しばらく信号が黄になっても状況に応じ交差点を通過していた処、今度は信号無視でつかまった。
罰金は当時でも最低ランクの3千円であったが、私は立腹して裁判する事にした。
弁護士も付けず一審は有罪となったので、高等裁判所に上告した。
係の人は当惑して、
係の人は当惑して、
「3千円位の事だから払って呉れませんか!」
と言ったが、裁判を続けた。
2回も3回も公判があり、又有罪となった。
最高裁へ上告すると東京へ何度も行かなければならないし、このまま引っ込むのも腹が立つしで思案していた。
いつもの様に朝の祈りに出掛けたとき、途中で神様は言われた。
「今の裁判官は、いつ迄も裁判官ではなく、あなたもいつ迄も被告ではない」
これを聞いて、私は慄然とした。
最高裁へ上告すると東京へ何度も行かなければならないし、このまま引っ込むのも腹が立つしで思案していた。
いつもの様に朝の祈りに出掛けたとき、途中で神様は言われた。
「今の裁判官は、いつ迄も裁判官ではなく、あなたもいつ迄も被告ではない」
これを聞いて、私は慄然とした。
神様は人が死んで後、行われる裁判について言われたのであるが、私はこれをすっかり忘れていた。
そして最高裁への上告を取り止め、三千円を払って、この件の決着はついた。
今、私は思うのであるが、この世で私達が不当な扱いを受けていても、必ずしもこの世で決着をつける必要はない。
そして最高裁への上告を取り止め、三千円を払って、この件の決着はついた。
今、私は思うのであるが、この世で私達が不当な扱いを受けていても、必ずしもこの世で決着をつける必要はない。
絶対的な裁判官である神様が同席されて、もう一度やり直し裁判がある。
その時、私達はどこに座っているかが大問題である。
原告席か、又は被告席か。
これは大変な違いである。
私は思う。
私は思う。
天の国では、人の立場は神様にどれ程近いかで決定されてしまう。
二人の人が話しをする時、神に近い人は神様をバックにしており、もう一人の人は神様より正面より照らされて話しをする事になる。
対等にものを言える状況ではない。
追記 00/N
その後何年かの内に交通法規が改正になり、今度は逆に通過するのは合法で、急停車するのは違法となった。
追記 00/N
その後何年かの内に交通法規が改正になり、今度は逆に通過するのは合法で、急停車するのは違法となった。
人の作る法律とは一体何なのか?
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