二度死んだ事 | 海南島のヨハネの黙示録

海南島のヨハネの黙示録

キリスト教の元宣教師・海南島のヨハネさんの不思議な体験の数々

私には、死んだ経験が二度ある。

 

一度は、6才の時バナナを食べて疫痢になり、真夜中に臨終となり医者が死亡を確認し、顔には白布を掛けて帰った。


私の母が熱心に祈っていると、一、二時間後に生き返った(その話は母より何度も聞いた)。


しかし私には全く記憶はなく、只、子供の頃、


(バナナは恐ろしい物である)


と思っていた事位である。

 


二度目は、私の17才の時、電柱の上で感電して死を味わった事である。


気が付く迄4、5分の事であったので、医学的に死亡であったかどうか私は知らない。


しかしその時の事は克明に記憶があり、左記の通りである。

 


電気工事の為、先輩と一緒に電柱(木の柱)に登った。


私が先に登り、元気がよかったので、不注意にも、一番上の金具(ストラップ)に飛びついた。


電柱の一番上に登る為、左手でステイ(ツッパリの鉄線)を握り、右手でストラップを握ってぶら下がった時、ストラップに動力線のケッチ(ヒュ-ズ)が接触していた。

 

右手から左手へ、200Vの電気がまともに流れた。


仕事柄、感電する事はしばしばであるので、対処の仕方は知っていた。


とにかく片手を離そうとしたが、どうしても離れなかった(痙攣していて離せる様な電流ではなかった)。

 

次に、落ちても良いから(確か6m位の高さ)両手を離そうとしたが、それでも離れなかった。


そして苦しみのあまり暴れたので、右足のふくらはぎが下にある裸の電灯線に乗ってしまった。


そこにも電気が流れ、身体全体で感電している様な状態になってしまった。


まともに働いているのは頭だけであった。

 

何分位、感電していたか判らないが(多分2、3分)、身体中の骨と骨の間にキリを差し込んで離す様な痛みで、とても表現出来る様な痛みではなかった(後日考えて、その時、よく気絶しなかったものだと不思議に思った)。

 

急に身体全体が熱くなるのを感じた。


の時、


(アッ 焼けている!)


自分の身体が焼けているのを知っていた。


次に、


(死んでしまう)


と思ったのと、死の恐怖が襲ったのとは同時であった様に思う。


口では、


「痛い!」


とか、


「死ぬ!」


とか、わめいていた様である。


多分、目はカッ!と開いていたと思うが、先ず遠方の景色に霞み(乳白色)が掛かり、それが段々と近くなって、間もなく乳色一色になってしまった。

 

次に、耳が段々と聞こえなくなり(それ迄、下で騒いでいた人の声が聞こえていた)、最後に、口でものを言う事が出来なくなった。

 

しかし、本当の苦しみが始まったのはそれからであった。


私の奥底にあるものが、


(死にたくない!)


と、物凄い抵抗をしたのである。

 

(死にたくない!)


という叫びと、迫り来る死とで、頭の中は物凄い状態で、先の身体の苦しみとは比較にならない苦しみであった(表現する言葉が見当たらない。後日、思ったのであるが人間の生への執着は、かくも凄いものであるか)。

 

生への執念が、死の運命を懸命にこらえているのだが、ついに支えきれず、


(だめだ!)


と思った時、鋼鉄線が切れた様な感じがした。


途端に、私は花の咲く野原にいた。


春の日差しがあり、とても楽しい処であった。


そこを一人で歩いていると、


「足、足」


と言う声が聞こえた。

 

気が付くと、電柱の上で下にいた先輩(大男)が私を担いでいた。


一寸してから、その人に助けられ、とにかく電柱から下りた。

 

両手の平は真っ白になり、乾燥していた。


右足のふくらはぎには、電線の食い込んだ跡が残っていた(身体が焼けて行く途中、手のひらが乾いたので電気が止まってしまったらしい)。


感電した時の痛さ、死の恐怖の苦しさ、今でも覚えている。

 

これは、私が17才の時の経験であるが、後日、救われてからこの事を思い出し、非常に畏れ多い気がした。

 

神様は私に克明な死の経験と天国も見せて(行かせて)下さった。


私の死に方は(木の上で大の字になって)、イエス様の死に方と…これは畏れ多い。

 

私はずっと思っていた。


私程の苦しみを味わった者は、世の中にいないと…又、私ほど死を詳細に味わった人も…。

 

多分、30才の頃、伝道者の書の最後の章を読んでいて、ゾッとした(それ迄、何回も読んだが、気が付かなかった)。


あの章を書いたのは誰なのか?


それは私が経験した死とほとんど同じ事が書いてある。


私は思っていた。


(この事を知っているのは私だけだ)


と。

 

(この章を書けるのは、全く死んだが生き返った人と、神だけである)


と。


とにかく、これほど克明に書かれてあることに仰天した。



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十字架の苦しみ

 

 


質問「伝道者の書の記述について」

 

 



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