神の小さき声を聞くためには | 海南島のヨハネの黙示録

海南島のヨハネの黙示録

キリスト教の元宣教師・海南島のヨハネさんの不思議な体験の数々

2007年  5月8日

一週間前から、大阪の教会から新婚さんが海南島に来ていた。

その間、私もあちこち案内したり、日曜日は三つの教会へ行ったり(礼拝のはしごである)。

昨日、日本へ帰ったが、私も結構忙しかった。

その間、神の小さい声を聞いたのは一度だけで、今日も未だ聞ける状態ではない。

理由は判っている。

この夫婦の為に「こうしたらいいだろう」とか「ああしたら良いだろう」とか、頭の中が賑やかだからである。

そして今日、一つの事が判った。

神様が私を海南島に住ませた大きい理由は、この小さい声を聞く為に、諸々の雑音から私を遠ざけられる為である。

ここ海南島で会社の仕事を考えても仕様がないので全く考えない(年2、3回決算書をメールで送って来る。それを見るくらいである)。

家族から離れているので寂しくあるが、煩(わずら)いもない。

家事は家政婦さんがやって呉れるので、あまり気にしない。

経済的にも充分である。

ここでは日本の収入を使い切れるものではない。

現在、世の中の雑音の少ない非常に良い環境である。

私は以前、この神の小さい声は誰でも聞けるのではないかと書いたが、私自身、去年の秋迄はあまり聞こえなかった。

その時、肉体の苦しみが、頭の中にある色々な雑念・欲望・希望等を一掃して呉れた。

昨年末に引越しをして、一月中には新居も全く落ちつき、もう買うものもなく、何にも考える事はなくなった。

ただ「神の思いは絶対に実行されますように」これだけの執念だけになってしまった。

二月になって俄然、神の小さい声が聞こえ出した。

旧約聖書を読むと、エリヤは山に逃れてもう死を覚悟した時に神からの小さい声が聞こえた。

今思うのであるが、エリヤにしてそうであったのか?

神様は小さい声でなくて大きい声でももちろん語られる。

雷の様な声でも語られる。

しかし、小さな声である理由は判っている。

聞いた人が、

「これは気のせいだ、空耳だ」

と言っても、罪にならない為である。

イエス様は、

「人は幼な子の様でなければ神の国に入る事は出来ない」

と云われたが、少し判った。

この世の欲望や智識、信念等で頭の中が一杯であったら、もう神の声を聞くのは甚だ難しい。

私の永年の経験であるが、騒音の中では神の声は聞きにくい。

幻は暗い所の方が良く見える。

私は特にそうであるが、神様に近づく為には、心を塞ぐ世の中の煩いから遠ざかるようにしたいものだ。

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