サタンに対する嫌がらせとは | 海南島のヨハネの黙示録

海南島のヨハネの黙示録

キリスト教の元宣教師・海南島のヨハネさんの不思議な体験の数々

人を憎む事について

私は救われた時、その性質が変えられ、人を憎むとか、非常に嫌がるとかは出来なくなっていた。

だから、その時そんな性質は全くなくなったと思っていた。

しかし半年も経たない内に、その根は残っている事に気がついた。

サタンが残っているその性質を利用して、私を苦しめた事は、これまで何百回とはきかない。

私には今でも聖霊が入った時とサタンが入った時は感覚として判る(出ていく時はほとんど判らない)。

サタンが入るきっかけは、過半数は人を嫌がる時である。

何かで、

(この人は嫌な人だ)

と思った途端、サタンが入る。

私はこう考えている。

聖霊は人を憎む、あるいは疎んじる心と同居する事は出来ないので、出ていかれる。

すると空いた所へ(1、2秒の内に)サタンがすかさず入る。

そしてサタンが入った時、私と神様とは関係のないものになっている(契約上ではない)。

その時に祈っても、スカスカした感じだし、必ず答えられるという信仰もない。

そういう場合の修復方法は、聖書に的確に書いてある。

「もしあなた方が兄弟に対して心に憎しみを持った時…」

1.相手を心から許す事。※もし出来なければ神様に祈りながら(頼みながら)何らかの行動を起こす(謝りに行く)。

2.神様に赦しを求める。

1、2と順位をつけたが、これは同時である。

主の祈りにも、

「我等に罪を犯す者を我等が許す如く、我等の罪をも許したまえ」

とある様に、神様と人とが正しい関係を持つ為、右記の事は最も重要な事である。

先の聖句にもあった様に、先ず兄弟を赦さなければ神への供えもの(奉仕・献身・犠牲)は無駄なものとなる。

最近特に感じるのだが、

(あの人は嫌な人だ)

と一寸でも思うと、サタンはしつこくこだわって来る。

たいした理由もないのに、その嫌な点を次々と思い出させて来る。

どう考えてもこだわる理由はないのに、心はこだわって来る。

「サタンよ退け!」

と言うのだが、なかなか出て行かない。

この状態は全くサタンに憑かれた状態である。

怖じ気に憑かれると言うのも良く似た状態である。

高い所へ上った時、例えば、木に登るのが恐ろしい…と思った瞬間、怖じ気につかれる。

2、3mの高さ迄降りてきても、少しも直らない。

足が地についてやっとおさまる事がある。

これなども恐ろしいと思う前と後では何の状況も変わっていないのに、心は恐怖で満たされる(高い所におる事にこだわる)。

ある時、一人の人にこだわった。

大した理由もないのにサタンは、しつこく私の心にこだわらせた。

朝、起きた途端ムラムラと憎しみの心が起きて来る。

冷静に考えれば、そんな理由は何もないのに、どうしても心から離れなかった。

多分、半月位も続いて私も困り果てた時、神様は言われた。

「嫌がらせをしてはどうか?」

これはサタンに対するものである事は直ぐ判った。

私はその人の為に祈り、又、長距離電話を掛け困っていないかどうか尋ねた。

もともと何でもない間柄であったので、和気あいあいで電話は終わった。

その時サタンは私を離れ、二度とその事で私をこだわらせなかった。

その事を通して私は聖書の一句を理解した。

「迫害する者の為に祈れ」

これは相手の為だけではなく、むしろ自分がサタンにつかまらない為、又はサタンから脱出する為のものである。

そして、サタンに対する嫌がらせとは、兄弟を許し、愛し、祈る事である。




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