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解聞鏡

クローズドで行われている手技の練習会という名の道場の中で
出て来る特徴的な言葉を集めたブログになります。

この掲題については以前に書いたような気がする。

今回は別の論点から書いてみようと思う。

このブログの使い方について以前に書いた。

とはいえ、このブログは体験や体感が無ければ全く分からないようである。

そもそも手技をやっていない私が書いているわけだから、

これが分かりやすいブログかと言えばそうではないと言える。

しかし、私には皆さんがやってきた過程の体感が何となくある。

この体感を基に何かしらの解釈を書いているのがこのブログである。

このブログが分からないのは、感覚派の方であれば、言語能力が足りないから。

この足りないについては、

正直、感覚を研ぎ澄ますいや千本ノックをやったかで埋められるから、

まだまだ千本ノックをやっていないだけである。

別の意味では自分の試行錯誤が足りないというだけである。

一方、理屈派の方であれば、自分の得意分野での言語活動がまだまだ甘いと言える。

これはこれである種の千本ノックが足りないと言える。

言語活動とは一言で言ってしまえば、どれだけの本を自分の中で取り込んだかである。

このブログで書いたような気もするが、私に百冊の本を読んだと言った人がいたが、

私は「それで?」と言った事がある。

百冊読んでいても理解の幅が無ければ読んでも取り込んだことにはならない。

私の経験で言うなら、

本を読んだ時に後ろの方に出典と書いている本を

全部読んだくらいで漸く取り込めるのではないかと思う。

ここまでやってこそ、このブログの真意は漸く取り込めるのだと思う。

手技の習得には『取り込む』事が重要である。

まるっと手技を自分の中に取り込む。

これはかなり難しい作業。

ある意味で様々な要因がはまった時に漸く出来る事なのでしょう。

これには感覚的なものを重視され、この時には世界観が必要だし。

何を重視してお客さんにサービスを提供するか。

他にもきっとあるでしょう。

これらの全てが統合された時に漸く新たな手技を『取り込む』事ができる。

これには一歩ずつ、少しずつ、

面の穴を一つずつ埋めていくような作業をやっていく必要があるのでしょう。

物事を別の側面から見る。

これが物事を上手く進めていく方法論である。

これが出来ている人がどのくらいいるかと言えば、ほとんどいない。

何故なら、自分を俯瞰して観る事なんてほぼ誰も出来ないからである。

しかし、これをやる方法はある。

それは誰かを通して自分を見る。

もしくは自分の判断をするである。

誰かを通してはもう誰を通してかはお分かりだと思う。

そして何かを判断する時に誰かだったらどんな判断をするだろうか。

これを繰り返していると同化していく事が出来るのである。

とはいえ、この誰かが自分にとってのある種の成功例であれば良いが、

成功例で無ければ別の誰かを想定すれば良い。

ある組織から旅立った人はかなりの人数いる。

その中で自分が憧れていた人物がいれば、この機会に会ってみてはどうだろう。

この会った時に未来の自分が見えたならそうすれば良いだけである。

これから独立される方々がいらっしゃる。

今まではある程度のリソースは組織が用意してくれた。

しかし、独立すればこのリソースの全ては無くなり、個としての自分の力量だけになる。

その時に試されるのは、その人を助けてあげようと思ってくれる方々がどれだけいるかである。

これは過去のその人の所業による。

どんな態度で人と接してきたか。

この子の為なら何か動いてあげないと思えてもらっているか。

それがこれから試されるわけである。

何事も布石である。

どんな事に対して布石をうっていくかで人生は決まっていく。