アランパーソンズ プロジェクト | ビートルズやメンバーへのミュージシャンの発言集 The Beatles  影響 評価 

ビートルズやメンバーへのミュージシャンの発言集 The Beatles  影響 評価 

 ビートルズやビートルズのメンバーに対するミュージシャンの発言は今までたくさんありました 。おそらくこれから先もたくさん発言される事でしょう。ここはビートルズが与えた影響を記録していく場所です。

アランパーソンズ (ソングライター ヴォーカル エンジニア プロデューサー)

 

ビートルズの最後の2枚のアルバムのアシスタント・エンジニアを務めたのが、彼の頂点でした。その後、初期のポール・マッカートニーのソロ・アルバムのいくつかをアシストしたほか、ロイ・ウッド(Roy Wood)、ホリーズ(Hollies)、ジェフ・ベック(Jeff Beck)、ピンク・フロイド(Pink Floyd)のメガ・クラシックス「ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン(Dark Side of the Moon)」のエンジニアリング、パイロット(Pilot)、アル・スチュワート(Al Stewart)、アンブロシア(Ambrosia)などをプロデュースしました。
 

 

        ゴールドマイン 2012

 


◎ビートルズとの仕事って言いますが、ビートルズとの仕事以上のものはありませんよね。



 ビートルズとの仕事とは啓示みたいなものなんだよ。僕はアビーロードの2番目のアシスタントエンジニアだったんだけど、19歳の時で信じられない経験をした。


◎その間にバンドは分裂しかけていましたね。


 そうだね。アビーロードのレコーディング中、メンバー同士が一緒にスタジオに入っているのを見たことはなかったよ。でも素晴らしいアルバムだったよ。僕は特に (Maxwell's Silver Hammer )と (Golden Slumbers )が好きだった。


◎その前に「Let it Be」のレコーディングに参加されていましたね。あなたはどのようにしてこのアルバムに参加されましたか?何年かポールマッカートニーはセッションで自分の意思を他のメンバーに押し付けていたと見られていたので、かなり非難されましたが、内情を知る人間として、あなたはそれをどう見ていましたか?

 

  (レットイットビー)で、ポールは意欲的だったよ。だって彼はバンドの中では(責任者)の役割を担っていたんだからね。そして、彼は紛れもなくアルバムの中に最も強力な曲を持っていた。(Get Back)、(Let it Be)、(The Long and Winding Road )だ。しかし、最終的には『Let it Be』はうまくいかなかった実験的な作品になった。

 

◎次に、Wingsのデビューアルバムである1971年の(Wild Life)も、アビーロードスタジオでトニークラークと一緒にレコーディングされていますね。



  (I Am Your Singer )という曲を私がミックスした。ラフなミックスだけのものになるはずだったんだけど、ポールがそれを気に入ってくれて、結局レコードに収録されることになったんだ。(Tomorrow)ではバッキングヴォーカルをやったよ。アルバム(Wild Life)では、ポールがこれまでのレコードのように磨きをかけようとしなかったことに少し驚いたんだよ。彼がベースパートを得るために徹夜をしたアルバムというわけではないんだ。彼はその時、ただバンドであることを望んでいたんだよ。


 
◎マッカートニーの『レッドローズスピードウェイ』でもエンジニアとして活躍していましたね。あのアルバムについてはどう思いますか?



 僕はあのアルバムをとても誇りに思っているよ。僕にとってのハイライトは (Little Lamb Dragonfly )だね。(My Love)では、元々コーラスのリズムがもっとシンコペーションになっていたのを覚えている。元々はWingsのツアー中にRolling Stonesのモバイルスタジオでレコーディングする予定だったんだ。


◎ポールマッカートニーとの仕事はどんな感じでしたか?



  そうだね。彼はいつでもエンジニアに多くのことを期待していたし、(もっと良いドラムサウンドを作ろう!)とか、そういうことを実際、彼は一生懸命やってくれるんだ。だから僕は彼とプロフェッショナルな関係において共同作業を通じて友達になった。僕は彼の才能に対してスタジオに入った初日から今日に至るまでいつでも畏敬の念を抱いていた。つまり、彼には彼がスタジオに存在する時に作る独特な雰囲気があるんだよ。彼はスタジオを輝かせることが出来るんだ。
 

 

◎若いエンジニアとして、一緒に仕事をしているアーティストに気を取られないようにするのは大変だったのではないでしょうか?


 ああ。ビートルズやポールマッカートニーと一緒に仕事をするというのは難しいものなんだよ。特にソングライターとしての僕がそう思った。僕の場合、現実で一番最初に出会ったプロフェッショナルなソングライターはポールマッカートニーだった。だから彼からはソングライターという職業に対する期待だけではなく、自分の才能に対する絶望感も与えられたんだよ。



 


       ソングファクツ  2011 

 

 

◎(Don't Answer Me)の歌詞のインスピレーションはどこにあるんですか?


(ただの言葉だよ。)それはポールマッカートニーが使っていた表現から生まれた曲なんだ。(It's just words.)。 その表現に特別なインスピレーションや思想は無いよ。興味深いことに、この言葉には (magic )という言葉も含まれている。

     魔法の力を信じるなら  気持ちは変えられる


 だけど、(僕に返事をしないで。 )の意味がよくわからないな。(その事については聞きたくない 。)と言っているのかなあ?まあ、ただの言葉だと言うことにするよ。(イエスタデイ)は "スクランブルエッグ "から始まったよね。
 

 

 

 

◎ビートルズと仕事をするようになって、アビーロードスタジオのアシスタントエンジニアになるまでの経緯を教えてください。



  全ては西ロンドンにあるEMIレコードの関連部署で働いていたことがきっかけだった。テープ複製工場で、テープ機のメンテナンスや、EMIの作品をコピーして海外の工場でビニールディスクを製造する仕事をしてたんだ。そんななか、1967年に(Sgt. Pepper)を聴いた時に、(ビートルズがどうやってこんなことをやっているのかを知りたい! )って僕は思った。そしてちょうどいい日時を選んで、面接を受けて、その数週間後にはビートルズとの仕事が決まったんだよ。



◎あなたはアビーロードスタジオに電話をして、その人に聞いたところ、働く人を探していると言っていたんですね?



 電話じゃなくて手紙でやったよ。手紙の時代だったからね。手書きの手紙って、その人間の事を表すんだよ。今では誰もそんなことをしようとは思わないだろうがね。


◎実際にビートルズと会って仕事をするようになったのはどのくらい後ですか?

 

 最初の仕事に就いてから3、4ヶ月くらいだったと思う。最初はアビーロードのテープライブラリーで働き始めて、セッションでは壁に張り付いて盗み聞きをするようになった。当時は「元に戻す」ボタンがなかったので、非常に厳しく、責任感のある仕事だったよ。間違ったタイミングで録音ボタンを押してしまうと、テープに記録されていたものを消してしまい、それで終わりだったからね。


 68年の10月だったと思うけど、69年の1月か2月に(Apple)から(Let It Be)のセッションを担当するように言われた。かなり威圧感があったよ。コントロールルームに入ると、そこにはビートルズ、ジョージマーティン、グリンジョンズ、オノヨーコの4人がいた。僕は中に入って、(やあ! 助けに来たんだ!)って言った。彼らは皆、少し悲しそうな顔をしていたんだけど、ありがたいことに、(ルーフトップの日)が来て、屋上で録音した後には、少しは改善されていたよ。その出来事で彼らの楽曲に対する熱意に大きな違いが出来たんだよ。


◎スタジオでビートルズと一緒に仕事をして思い出はありますか?



 (レットイットビー)の期間はかなり短かった。でも、アビーロードのアルバムには1ヶ月ほど費やしたんだけど、素晴らしかったよ。バンドが一緒に作業しているのを見るっていう事よりも、ビートルズがそれぞれの曲に取り組んでいるのを見ることが出来た。実際にそうだったんだよ。


  ジョージが入ってきて一人で何かを作っていた後に、ポールが入ってきて (Oh!Darling )をやっていた。彼は毎日午後2時に来て (Oh!Darling )を2、3回歌って、(いや、これじゃない。)って言って帰って、そして、次の日にまた来て、それをやるんだ。その期間に一度に複数のビートルをスタジオで見ることが出来た日はほとんどなかっただろうね。

 

 

◎有名なルーフトップ公演に立ち会った思い出は?



  素晴らしかった。素晴らしい日だったが、観客の前でバンドとして一緒に演奏するのはこれが最後になるだろうと思っていたので、残念な気持ちもあった。でも、素晴らしい一日だった。そしてとても寒い日だった。


 

◎屋上にいたんですか?


 

  ああ、屋上にいたよ。屋上に居る僕が写っている写真がある。


◎ジョンレノンとの仕事はどうでしたか?



 ジョンはいつもユーモアのある人だった。だけど僕は彼とはあまり親しくなれたとは感じなかった。ポールやジョージとの方がずっと仲が良かった。でも彼にはいつもユーモアがあった。いつも面白いセリフを言ってくれた。彼と一緒に仕事をするのは楽しかったよ。


 

◎ バンド内に緊張感があったとか、その時点で解散の危機に瀕していたとか、そういうことはなかったんですか?



 ああ、確かにね。それは本当に明白にあったと思うよ。(アビーロード)が出てくる頃には、彼らは一緒に仕事をしたくないと思っていたんだ。個々の仕事になってしまっていたんだ。



◎ ピンクフロイドの「Dark Side Of The Moon」とビートルズとの仕事を比べてみてどうですか?

 

 それはかなり違うよ。唯一の共通点は、二つのバンドともスタジオをフルに使うことが好きで、常に新しいエフェクトや新しいサウンドを探していたということだ。でも、それが彼らと一緒に仕事をすることの素晴らしさなんだ。サウンドで常に新しい地平線を発見することが出来たんだよ。

 

 

◎昔の邸宅(アビーロード)に戻ってきてどうでしたか?

 (アビーロード)に戻るのは本当にスリルがあるよ。あそこに戻って、昔なじみの顔を見るのは、とても興奮する。ほとんどの人が亡くなってしまったけど、1人か2人はまだそこにいる。予約担当のコレットが引退するんだって、信じられないよ。彼は23歳の若さで入社したのに。


 ピンクフロイドとは素晴らしい関係だったし、彼らは僕を尊敬してくれているようだった。僕も確かに彼らを尊敬していた。そして、彼らはみんな仲良くしていた。アビーロードで時間を過ごすことができた幸運な僕達は、今でもこの場所の独特のオーラを感じている。他の誰よりも 感じているに違いないね。もちろん、それは決して消える事はないよ。僕が365日そこにいた時でさえ(パーソンズは1990年代後半にEMIスタジオグループの副社長を務めていた)、(ここですべてが起こるんだ )という感じだった。

 

 

◎EMIが分割された時、アビーロードが売却されるのではないかと心配されていましたか?


 ああ、心配していたよ。アンドリュー ロイド ウェバーが買収するという噂もあったし、色々とおかしな噂もあった。でも今は大丈夫だと思うよ。だってあそこは(神社)なんだから。スタジオの誕生日パーティーに参加したのを覚えている。確か75周年だったと思うけど。君もそこにいたよね。


 ノーマンスミス(ハリケーン・スミス、ビートルズのオリジナルエンジニアで初期のフロイドのプロデューサー)もそのスタジオにいたんだ。僕は彼のことはよく知っていた。ノーマンはポールと仲良くしていたし、ポールと僕がかなり近くに住んでいた頃はノーマンはとても社交的だったんだ。ノーマンが「30歳にして、このビジネスで何をしているかを知るのに必要な経験を積んだと思う。」と言っていたのを覚えてるよ。


◎ビートルズとは知り合いになりましたか?



 正直に言うと、その時点では誰一人として知っていたとは言えないんだ。


◎フロイドについてはどうですか?


   そうだね、『ダークサイド』やツアー中にお互いのことをよく知るようになったんだ。いい関係だったし、彼らは僕のことを尊敬してくれていた。僕も尊敬していたよ。みんな仲が良かったんだ。

 


◎当時のことを思い出すことはよくありますか?



  人々はいつもビートルズやピンクフロイドの話をしたがるからね。だから、僕にはそれを絶対に忘れることは許されないんだけれど、それでいいんだ。それは僕のキャリアの大きな部分であり、最終的には僕が今ここにいる理由なんだからね。


◎最後に、あなたが一番楽しんでいる役割は何ですか?


  (僕はいつもエンジニアリングとミキシングを楽しんできた。)

 

 

https://ameblo.jp/kaikosumiiyoshi/entry-12254822935.html

ピンクフロイドの記事

 

 

 僕にとっては初期の頃だった。アップルの地下スタジオに到着すると、そこにはビートルズ4人、ジョージマーティン、グリンジョンズ、オノヨーコ、リンダイーストマンがいた。中に入っていって、「こんにちは」と言った時には、かなり威圧感があったよ。(僕はアランです、あなたたちのアシスタントをしています。)ってね。

 そして、彼らはとても親切に僕を受け入れてくれた。僕は(Let It Be)や(Abbey Road)のレコーディングプロセスの創造性に何の影響も与えていなかったけど、僕にとってビートルズがレコーディングしていた時の全体の経験、そこにいた時の雰囲気は忘れられない経験だった。

 

 

 

          アルティメットギター 2019

 

 

 ビートルズを経験した後、僕はポールマッカートニーとかなり多くの仕事をした。1970年のデビューソロアルバム『McCartney』で仕事をしたし、後には『Hi,hi,hi,hi,hi』や『C Moon』、アルバム『Red Rose Speedway』のシングルも作ったよ。しかし、ポールと仕事をしていた時の最高の瞬間は、初期の頃にセカンドエンジニアとして働いていたことだと思う。彼は全ての楽器を演奏し、リンダが小さな貢献をしただけで全てのヴォーカルを担当していた。『Maybe I'm Amazed』という曲では、彼は全ての楽器、ベース、ドラム、ギター、キーボード、全てを一日で仕上げてくれたんだよ。

 

 

  ピンクフロイドはもちろん、(The Dark Side of the Moon)はおそらく最も重要なアルバムだと思う。前作のアルバムで一緒に仕事をしたことで、幸運にもこのギグに参加することができたんだ。(Atom Heart Mother)のセッションのミックスを依頼されて、「The Dark Side of the Moon」の初期のセッションに参加してくれと頼まれて、彼らが満足するような仕事が出来たんだ。だから結局、アルバム全体を担当することになった。セッションを欠席しないように一生懸命に働いたのは、他の誰ともエンジニアのクレジットを共有したくなかったからなんだ。

 

 

 

   ロンドン ビートルズウォーク  2017  ロンドンビートルズファンクラブマガジン

 

◎ビートルズと関係を持ち始めた最初の頃のあなたの実際の役割は何だったのですか?



  テープオペレーターと コーヒーメーカーとタバコのバイヤーをしていたよ。



◎あなたが関わった数日後に有名な屋上でのセッションがありましたが、それを最初に知ったのはいつですか?


  (観客の前で演奏しよう。)って言われたんだ。(いいよ、いつ、どこでやるんだよ。)(明日、屋上でやればいいじゃないか。)と言われて。普通の状況ならば、もちろんクレイジーなことだが、それがビートルズだった。開始1時間前、僕らはマイクのテストをしていたんだけど、その日は風が強くて、マイクがものすごい音を出していたんだ。僕はマークス アンド スペンサーに駆けつけて、風が入らないようにマイクにかけるストッキングを買ってきた。それは非常に奇妙だったよ。ランジェリー売り場に歩いて行くと。彼らが(サイズは何が欲しい)と言って、僕が(なんでもいい)って言う。('何色が欲しい)って言われて僕が答える。(何でもいい。) 銀行強盗にでも入ると思われたんじゃないかな?


◎屋上でのレコーディングで何か問題はありましたか?


 実は屋上にいたんだ。問題を解決するために通信システムの向こう側にいたんだ。楽しかったよ。全てが始まって稼働してしまえば何もすることがなかったから、ただ彼らの演奏を見ていただけだった。誰もが賑やかな感じになっていたよ。


◎アビーロードのLPでは多くの作業をされたと思いますが、その時の雰囲気はどうでしたか?

 


 とても緊張感があったよ。(特定の当事者達)と(奥さん)との間には様々な個人的な不和があったよ。

 

 

◎ビートルと最後に仕事をしたのはいつですか? 



  1年半前(1993年頃)、自分のスタジオでポールと一緒に仕事をしたんだ。スタジオで一緒に実験をして何か出てこないかと思っていたんだけど、何も出てこなかったよ。


◎あの雰囲気の中で録音された『Abbey Road』のLPがこんなに良いものだったとは、みんな驚いていたと思います。それはジョージマーティンの影響でそうなったんですか?


 いや。違うね。個々の作曲家によるところが大きかったと思う。ご存知の通り、ポールがポールの曲で歌ったり、ジョンがジョンの曲で歌ったりね。ただ、『アビーロード』のアルバムで顕著だったのは、彼らがあまり一緒に仕事をしていなかったことだね。彼らは個々に入ってきて、それぞれの曲をやる傾向があった。私は後半のトラックでより関与していて、ジョンクーランダは初期のトラックを担当していた。


◎サイド2のメドレーは、メドレーとしてレコーディングされたのでしょうか?



 当時は(The Long One)と呼ばれていた。僕はその場にはいなかったし、それをまとめるきっかけとなった会話には参加していなかったけど、一つの作品として非常によく考えられていたよ。それは一つの作品として作られ、常に一つの作品として聴かれていた。その日の最後まで進展したものをラフミックスして、みんなで家に持ち帰って聴いていた。



◎ビートルズ4人が一緒にスタジオにいた最後の日にあなたはスタジオに居たと思いますが、その日は実際に何があったのですか?



  最後の日に何があったかって?

 


◎アルバム(カヴァー)の濃淡の縞模様の日は?



  ああ、はっきりと覚えているよ。ホリーズのトニーヒックスが聴きに来ていたよ。アビーロードのカバーが撮られた日にも立ち会ったよ。


◎それ以来、ビートルと仕事をしたことはありますか?


  そうだね、『レッドローズスピードウェイ』がメインの時だけど1972年にウィングスとヨーロッパツアーに行ったんだ。そのライブは同時にレコーディングしていたんだけど。その音源がどうなったのかは知らないね。「Hi Hi Hi」のリズムが変わっていて、とても面白いバージョンがあったんだ。僕はいつもライブバージョンの方が好きだったし、ポールにもそう言ったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ビートルズコピー