グリンジョンズ | ビートルズやメンバーへのミュージシャンの発言集 The Beatles  影響 評価 

ビートルズやメンバーへのミュージシャンの発言集 The Beatles  影響 評価 

 ビートルズやビートルズのメンバーに対するミュージシャンの発言は今までたくさんありました 。おそらくこれから先もたくさん発言される事でしょう。ここはビートルズが与えた影響を記録していく場所です。

新しいのを付け加えてまとめてみました。

 

グリンジョンズ(ストーンズ、ビートルズ、レッドツェッぺリン、ボブディラン、エリッククラプトン、ザ フー、イーグルス、ザ クラッシュのプロデューサー、エンジニア)

 

 




          サウンドマン 2016

 60年代前半レコード業界の姿は激変した。それを促したのがシンガーソングライターの登場であり、ビートルズやボブディランがその先頭にいた。程なくして独自性を出すために誰もが自分の素材は自分で書かねばならなくなった。いいシンガー、いいパフォーマーというだけではもはや不十分だった。

 




 そのテレビの特番(アラウンド ザ ビートルズ)が僕のビートルズの初体験だった。(体験)と書いたのは僕はあくまでセカンドエンジニアの身で彼らとは会わなかったからだ。私たちがあらかじめインストトラックを収め、彼らが本番にそれらに合わせて生で歌った。当時テレビのサウンドは何ともひどいもので、まともな頭の持ち主なら誰であれ、生でやりたいとはまず思わなかった。その頃と今とではレコーディング技術に雲泥の差があるという事実はさておき、TVのサウンドエンジニアやセットデザイナーにはあの新奇な騒々しい音楽のことがこれっぽっちもわかっていなかった。セットはあくまで視覚効果を狙ったもので、音響効果を考えて作られてはいなかった。


 このビートルズセッションで印象的なことがある。ヴォーカルがないと彼らのサウンドがわりと普通に聞こえたことだ。同時代の他の有力グループと言われてもわからない程度だったのだが、歌声が加わった瞬間にそこにはもうあの魔法が存在していた。当時からすでに褒めそやされていたのに、彼らはそこからソングライター、ミュージシャン、プロデューサーとしてますます進歩していったわけで、それには昔も今も感心している。


 プロデューサーはミュージシャンのキャリアを、伸ばすよりもずっと簡単にぶち壊せる。自分はただ幸運だっただけなんだ。みんな勘違いをしがちだからこれは言っておかないとならない。プロデューサーの変更はきくだろう。だけど本当の意味で優れたミュージシャンの変更はきかない。誰かミックジャガーやキースリチャーズ、ジョンレノンやポールマッカートニーの代わりを探せるかな?今でも誰か代わりがいる?

 

 

 

  1968年12月のあるオフの晩、自宅の電話がなったので出ると受話器の向こうでリヴァプール訛りの男がポールマッカートニーだと名乗った。てっきりミックジャガーがからかっているだけだと思い、おふざけは辞めてくれといったが、男は本人だと言い張った。そして何とも驚いたと同時に恥ずかしい事に、それは本当にポールマッカートニーだった。私は宝くじに当たった気分だった。それまで数々の売れっ子アーティストと仕事をしてはいたけれど、はっきり言ってそれとこれとは別だった。

 

 

 メンバーがぽつぽつと現れ始めた。まずはポール。次はリンゴ、続いてジョージ、最後にジョンとヨーコ。全員が一堂に会するのは久しぶりらしく、親睦を図る当意即妙のやり取りが交わされ、だんだんとみんながお互いの存在に慣れていき、ある程度落ち着いたところで、プロジェクトに対する具体的な話にはいった。一つだけ軽い違和感を覚えたのがヨーコの存在だった。4人が仕事に入る中、背景にそっと溶け込んだ私たちとは違い、彼女はジョンと同じ椅子に座ったまま動こうとせず、時には3人の誰かかが投げかけてくる質問にジョンに代わって答えていた。ジョンはそれに心から満足している様子で、だからみんなもそういう物として受け入れ、その状態で出来る最善の形で仕事を進めた。とはいえ、正直なところそんなものを目にするのは初めてのことで、私はどうにも据わりの悪い思いでいた。他の人々の気持ちも推して知るべしだろう。突然、5人目のメンバーが加わったって感じだった。

 

 

 2日目にメンバー間の緊張状態が臨界点に達した。我々スタッフ一同は大慌てで外に出て、4人だけで意見の相違を解決してもらうことにした。


 これは昔からたびたび思うことなんだけれど、バンド活動は結婚生活になぞらえられる。何週間もぶっ続けでひとところに閉じ込められたまま毎日をすごし、奇妙奇天烈な、時に死ぬほど退屈な時間を共有するなかで、アーティスト集団としての創造的混合とは何ら関係がない、いかなる人間の集団においても存在する人間性の相違が浮き彫りにされていく。さらにはバンドの誰かが現状維持の状態に不満を抱き、新たな音楽の道に進みたいと考え、一人で出帆していくことが必ずやってくる。


 今でも覚えている。あの寒い灰色の午後、トウィッケナムの殺風景なサウンドステージの外で、腰を下ろし祈っていた。世界最大の成功を収めたバンドのプロジェクトに起用されたという高揚感がどうかたったの2日で激しいブレーキ音と共に急停止してしまわないようにと。


 世界一有名な4人のミュージシャンが自ら書いた曲に磨きをかけ、納得のいくものに仕上げていく様子を目の前で見ていた。エンジニア冥利に尽きると思ったし、その気持ちは日を追うごとに強くなっていった。しかもこの時の彼らは(サージェントペパーズ)で広く知られるようになった信じられないほど複雑かつ革新的な制作手法を離れ、、これ以上ないほどのシンプルな編成でそれを行っていたのだからなおさらだ。(プロデュースされた)レコードの匠であることを証明した彼らはいったん原点に立ち戻り、聴く者の気を散らす、もしくは音楽を増強するオーヴァーダブも音響効果も使わず、生で演奏し、生で歌っていた。包み隠しているものは何一つ無い。そんな彼らを見ていて、ふと私の脳裏を

よぎるものがあった。(生の現場を覗き見ているこの経験はファンにとっても興味深いものなんじゃないか?)



 セッション後のある晩、私は誰にも言わず、リハーサルを収めたマルチトラック録音を持って、オリンピックスタジオに赴き、それをミックスし、こんな形がいいのではないかと思うものに編集した。それはいわば音によるドキュメンタリーで、壁にとまった蠅のようにして、私がこっそりと眺めていたもの、つまり、4人がやり取りをかわし、楽しみ、ジャムをし、からかい合い、止めては始め、素敵な音楽を作っていく様子を、長短ひっくるめてありのままに伝えるものだった。


 ある日の午前中、他の三人がスタジオに現れる前にジョージから(今日は終わった後に少し残ってくれないかな?デモをとって欲しいんだ)と頼まれた。(一つ自分で書いた曲があるんだけど、みんなの前ではやりたくないんだ)って言う。そこでみんなが帰るまで待ち、ジョージが無人のスタジオに入って披露したのが(サムシング)だった。(これはすごい。彼の最高傑作なんじゃないか)と思ったのを覚えている。歌い終えたジョージがコントロールルームに入って来て、プレイバックを聴き、どう思うか尋ねてきた。自信がないようだった。(素晴らしい。絶対にみんなにも聴かせた方がいいよ。)と私は伝えた。これはあくまでも推測だが、彼はジョンとポールの陰で生きてきた結果、自信をくじかれていたのだろう。


 レコーディングの最終週、ジョンレノンが玄関扉を開け、アランクラインを迎え入れる姿が目に飛び込んできた。あまりの衝撃に階段を転げ落ちそうになった。アランは1967年にローリングストーンのマネジメント権を買い取っていた。ストーンズのメンバーはそれについてとても不満で全マスター及び出版権も1971年までアランが押さえていることを知ってからはますますそうだった。1968年のある晩、ロンドンで私とアランが夕食を共にした際、アランは(ビートルズも手に入れるつもりだ。)と宣言した。私は彼に(頭がどうかしている)と言って相手にしなかったのだが、それから一年後の今、目と鼻の先でアランが(やあ、どうも。)と私に向かって手を振り、ジョンの案内で事務所に入っていくではないか。


 それからちょうど一か月後の1月31日予定していた全曲のまっとうなパフォーマンスを収め、サヴィルロウでの仕事を終え、私たちは各々それぞれの道へと進んでいった。

 

 


  1969年 5月1日、ジョンとポールから電話があり、アビーロードに来てくれないかと言われた。コントロールルームに入ると、そこにはうず高く積まれたマルチトラックテープの山が出来ていた。(1月に君がまとめてくれたアルバム案を再検討した結果、君に任せることにした。全録音をミックスして一つにまとめてほしい)、という。僕は考えただけでも興奮してきて、いつから一緒に始められるのかと、勢い込んで尋ねた。二人の答えは(君の案なのだから、君一人でやってもらって一向に構わない。)だった。全幅の信頼を置いてもらえたと思い、その時は有頂天だったのだが、間もなく気が付くことになった。彼らがこのプロジェクトに対する興味を失っていたのが、真の理由だった。



 ともかく私はオリンピックスタジオのミックスルームに直行し、それから3晩を費やしてアルバムを編集し翌日のセッションでそれを4人に聴いてもらった。

 
 私はもともとエンジニアという扱いであり、それで十分に満足していたし、その気持ちはジョージマーティンが制作には携わらないと知った時も変わらなかった。彼が関わらないと知った当初は、正直、かなり気後れを感じていたのをよく覚えている。(ところでジョージマーティンは?)とポールに尋ねたところ、(今回は使わないことに決めた。)とあっさりと返されて、戸惑ったのも覚えている。


 蓋を開けてみれば、関係なかった。なぜならバンド解散後、ジョンはそのテープをフィルスペクターに渡したからで、スペクターはそこら中に反吐をまき散らし、あのアルバムをいまだかつて聴いたことのない程、甘ったるいシロップ漬けの糞みたいな代物に一変させてしまった。私がまとめたマスターテープは、まあそれが妥当だったんだろうがEMIのテープ庫行きとなった。私版の(ゲットバック/ドントレットミーダウン)は一応シングルとして1969年4月に発売された。


 結局 クラインは自分の思うとおりに事を運ばせ、バンドのマネジメント権を力づくで物にした。ブライアンエプスタインの死後、ビートルズは船頭のいない船みたいなものだった。しかも、エプスタインはEMIとのお粗末な契約を置き土産にしていった。レコード契約の再交渉はアランクラインの十八番だったから、彼が登場したのは絶妙な時期だった。


 (アクロスザユニヴァース)のヴォーカルの録り直しがジョンとの最後の仕事になった。その日のジョンの雰囲気には妙なものがあった。オリンピックスタジオで、ミックスルームのヴォーカルブースにジョンを立たせ、マルチトラックテープを回した。声の録音レベルを見定めるのと、ジョンに肩慣らしをさせて、これからすることに気持ちを入れてもらうためだ。通しで一回やった後に(今の感じでいこう)と伝えた。するといきなりジョンが激怒した。(今みたいにもう一度なんて歌えるわけがない、大体なんで最初から録っておかなかったんだ?)って彼が言った。僕は(君の声のレベルををとる必要があったからそれは不可能な話だ)といった。彼は不承不承もう一度歌い、憤然としたまま出て行った。もちろんジョンはこの時点でレコーディング経験が豊かで、自分が馬鹿げていることを言っているのがわからないはずもなく、何かしら化学物質の影響下にあったせいだと思うことにした。それまで本当に気持ちのいい仕事上の関係を築いていただけに、こんな終わり方が残念でならなかった。ジョンはいつも尋常ならざるほど面白おかしくて、私が出会った誰より頭の回転の速い男だった。

 
 映画の完成が遅れたせいで(レットイットビー)はビートルズが発売した最後のアルバムになったわけだが、彼らが全員で録った真のラストアルバムは(アビーロード)だ。ジョージマーティンとジェフエメリックが正しい役割に復帰し、荘厳な形で同作をまとめ上げた。それから間もなく、ビートルズはついにばらばらになってしまった。彼らが再び一つになったのは、数年後、クラインとの関係を断ち切った後だった。



 数年後、ミックジャガーがだしぬけに言った。(今晩はジョンレノンの家に遊びに行くんだけど、よかったら一緒に来ないか?)。数か月前、ジョンはある英タブロイド紙の取材でアルバム(レットイットビー)について尋ねられ、私のことを不快な言い回しでこっぴどくけなし倒していた。だから私はミックの誘いを断り、その訳を話した。ミックはそれを取り合わず、口論の末に私を説き伏せた。私は出来る限り行儀良くふるまうこと、そしてジョンに食って掛からない事と約束させられた。

 

 

  ジョンのマンションに着いた所、何とも驚くことに私はたっぷりの愛情をもって迎え入れらえた。当時、ジョンはメイパンと暮らしていた。私たちは皆でTVを見たりおしゃべりをして気持ちのいい夜を過ごした。


 そろそろ帰ろうかという時間になったが私としては例の記事と(レットイットビー)セッション時のジョンが私に吐いた尋常ならざる毒に触れずに帰るのは、偽善的に過ぎる気がした。だから玄関口で振り向き、可能な限り感じよく、(理由を話してもらえないだろうか?)と聞いた。(今日の君は僕といてとても愉快そうだった。なのにあのインタビューでは普通じゃないぐらい不愉快な様子だったのはどうしてなんだろう?)


  ジョンは私に向き直って言った。(あの時期はポールに対しても同じくらい死ぬほどムカついていたんだよ。それとポールが僕によく言ってたんだ。『君が辛辣な態度で傷つけているのは他でもない君自身なんだよ』ってね。それはその通りで正しかったんだ。)


 
 それは謝罪ではなく釈明に近かった。こうしたドロドロしたものの噴出は例のプライマルスクリーム期(原初療法と言われる精神療法の一つでジョンレノンも受けた)に始まったものだった。私たちはハグをして別れた。ミックは安堵の表情を浮かべていた。私が行儀良くふるまうという約束に背き、そのせいで決まりの悪い思いをさせられずに済んだと思いほっとしていたのだろう。


 これがジョンと顔を合わせ言葉を交わした最後になった。ジョンとの最後の思い出が穏やかで快いものになって、心から嬉しく思っている。






           2011 アンカット ロックト

ザ ビートルズ「レットイットビー」

 
 電話をもらった時のことは忘れないよ。リバプール訛りで、ポールマッカートニーだったんだが、ミックジャガーが自分をからかってんだろうって思ったんだ。依頼を受けて光栄だったし、ザ ビートルズがレコーディングじゃなくて、バンドとして演奏するのを見るのは、すごく魅力的だった。元々は、そこで新曲をリハーサルして、北アフリカの古代ローマ遺跡あたりでライブ映像を収録しようってことだったんだが、結局はアップル社の屋上で、恐ろしく寒い中、やる羽目になった。


 個性が互いに影響しあうのは、大した見ものだった。だが、それは危うさもはらんでて、最後には頭痛の種になってきた。見てて悲しくなるような、あまり嬉しくないこともなくはなかった。ジョージとポールは口げんかばかりだったが、そんなことよりもジョンとヨーコだ。ヨーコがあれこれ関わってくれるんだが、どうもちょっと微妙だし、アルバムより大切とは思えないようなことが色々と起きてね。


 自分が仕上げたような形でリリースされなかったのは、本当にがっかりした。ジョンがフィルスペクターに持っていって、彼は何もかも台無しにしてくれた。最悪だ。あれを最初から最後までちゃんと聴いたことは一度もない。1トラックだけ聴いてそれで十分だった。



 

 

        サウンドマン2016 ロックト 2016

 

 

ザ ローリングストーンズ「ベガーズバンケット」


 「サタニックマジェスティーズ」はザ ビートルズに負けまいっていうミックの発案だったが、みじめな失敗に終わった。それで原点回帰したんだ。ジミー (ミラー。プロデューサーとしてクレジットされている) は微妙に貢献したけど、実際には、いつもと同じくミックとキースがプロデューサーだ。ビルとチャーリーは恐ろしく柔軟で、いい感じで、そしてプロに徹してた。ブライアンジョーンズはミュージシャンとしては一番優れてたけど、気分次第で、一緒に仕事するのは容易じゃなかったな。


 彼らはスタジオ内で曲作りからほとんど全てやろうとしてて、膨大な時間を費やしてた。キースはその辺の誰かれを捕まえては、リフだのコード進行だのを、下手すりゃ2~3日も延々と弾き続けるんだ。結局は、一緒に仕事するのをやめたよ。自分の人生を、ただ待ってるだけで、無駄にしてたんでね。なので、アルバムがあんなふうに上手く出来上がったのは、驚異的だ。どの曲にも、もっと良い別テイクがあったりする。だけど、「ベガーズバンケット」と、たぶん「レットイットブリード」が、彼らの最高傑作だと思う。「ストリートファイティングマン」の、強烈なアコースティックギター、スネアなしのドラムス、もうありえないよ。

https://www.youtube.com/watch?v=BUt0dZXPFoU

 

https://www.youtube.com/watch?v=RbmS3tQJ7Os

 

 

 

 

レッドツェッペリン (レッドツェッぺリン)

 


 プロデューサーとして言わせてもらえば現代のバンドサウンドに一番の影響として残っているのはストーンズでもビートルズでもない。明らかにレッドツェッぺリンだ。アメリカでは特にそうだろう。もちろんストーンズとはいつも親密だったし、ビートルズのセッションに参加出来て嬉しかったけど、レッドツェッぺリンはある種、特別だった。なぜならジミーペイジとジョンポールジョーンズは僕の10代の友達だったから。


 子供のころ、私は水曜の晩は教会のユースクラブに通うようになった。ある晩素人コンテストが開かれた。これは今でもよく覚えている。10代前半の、誰も見たことのなかった少年がステージ前方の縁に腰をかけて、足をぶらぶらさせながら、アコースティックギターを弾いていた。かなり上手くて、たしか優勝もした気がする。でもあの晩、あのホールの中に、彼がまさか後に大衆音楽界におけるかくも革新的な力になると考えたものは、一人としていなかったと思う。これがジミーペイジと私の最初の出会いになった。


 ジミーペイジとは彼がザ ヤードバーズに加わって以来、疎遠になっていただけに、出し抜けに電話をもらい、共通の友人であるジョンポールジョーンズと、私が聞いたことのないドラマー及びシンガーとバンドを組むと聞かされた時の驚きは想像がつくと思う。ジミーが言うには素材が十分に集まった。ひいてはアルバムを作るつもりでいる。願わくばこの私とやりたいということだった。


 私は1も2もなく飛びついた。ジミーペイジはサリー州のエプソムっていう私と同じ町の出身だし、5分ぐらい一緒にバンドを組んでたこともあり、60年代前半からよく知る仲だった。ジョンは長らくロンドン随一のセッションベーシストだった。ジョンとはエンジニア時代に毎日のように顔を合わせていて、彼がこれ以上ないほどの人格者であることも知っていた。


 その二人が組んだのだから、いいものになるに決まっているという確信はあったものの、数週間後、オリンピックスタジオに赴いた時にはまだ、自分がこれから何に足を踏みいれることになるのかがよくわかっていなかった。そのセッションはザ ヤードバーズの名前で予約されていた。正直、足もとから吹っ飛ばされるほどの衝撃だった。演奏が始まった途端、とことん叩きのめされてしまった。あの時の熱狂から未だにさめてないような気がする。これ以上はないくらい強烈で、それでいて、信じられないくらいレコーディングが簡単なんだ。きっちりリハーサルしてて、自分たちのやってることを熟知してる。それからの9日間で私達が作ったアルバム(レッドツェッぺリン)はロック史における大きな一歩にほかならない。ロックをまったく別のレベルに連れて行った歴史的一枚だ。


 彼らが創出したサウンド、彼らが考案したアレンジ、彼らの楽才の水準、そのどれもが等しく驚愕だった。彼らが用意していたものが私の目の前に次第に姿を現していく中、セッションは回を重ねるごとにわくわく感を増していった。私はただ録音ボタンを押し、あとは椅子の背に体を預け、(私は今、重要な現場にいるのだ)という興奮を抑えていればよかった。


 このアルバムのステレオミックスは間違いなく私が手掛けた中でも指折りのサウンドを誇るが、称えるべきはバンドだ。私がしたのは彼らが繰り出すものを忠実にテープに収めるように努めただけで、あとは雰囲気を際立たせるべく、そこここにエコーを加えたに過ぎない。

 
 アルバムが完成したのはちょうど(ロックンロールサーカス)をまとめている時だったので、制作会議にそのアセテート盤を持っていきミックジャガーに聴かせて言った。(このバンドはこの先とてつもない大物になる。だから、今のうちに前座に呼んだらどうだろう?いい話題作りになると思うんだけど。)私の言葉はあっさりと聞き流された。


 数か月後、あるビートルズセッションからの帰り道、ジョージハリスンをオリンピックに引きずり込んで、マスターテープを聞かせたんだけど、結果は同じで彼にもさっぱりだった。少々戸惑ったのを覚えている。私がこんなにもすごいと思うものがなぜ彼らにはわからないのか、全く理解できなかったからだ。それ以前は仲間内の皆が音楽についてほぼ共通の感性を有している気がしていた。ジミーもジョンポールジョーンズもミックもジョージも同じ時代に同じ影響を受けて育った。なのにミックとジョージは(レッドツェッぺリン)にはっきりと嫌悪の感情を示し、これっぽっちの価値を見出さなかった。まあいい、彼らには彼らの意見があるわけで、私にとやかく言われる筋合いはない。それに幸いにもレコード購買層の大部分は彼らと意見に異にしてくれたんだから。

https://www.youtube.com/watch?v=ZnfgRfhdpeQ

 

レッドツェッペリンの記事

https://ameblo.jp/kaikosumiiyoshi/entry-12277302973.html

 

 

 

ザ フー (フーズネクスト) 

  ザ フーとの関わりは、シェルタルミー (プロデューサー) の下で、「マイジェネレーション」とか初期の作品でどれもエンジニアをやってた頃からだ。「トミー」はマネージャーのキットランバートがプロデュースしたが、「Who's Next」はピートタウンゼントが僕に頼んできたんで、キットは悔しかったんだろうな。だから、僕は「共同プロデューサー」としかクレジットしてもらえてない。普通ならギョッとするところだろうけど、僕は気にしなかった。ピートのあの驚異的な作品に、とにかく関わりたかったからだ。


 あれは「ライフハウス」って映画のアイデアから始まったんだ。ピートはとてつもないデモとシナリオを作ってきたが、実際のところ、誰にも理解できなかった。ミーティングで(映画はやめてアルバムだけにしよう)って最初に提案したのは、たぶん僕だ。つらかったよ。ピートのことは他の誰よりも尊敬してる。「天才」って言葉は、手垢まみれだけど、まさにピートタウンゼントのためにある言葉だ。だが、このプロジェクトだけは、それがマイナスに作用してしまったんだ。


 「Won't Get Fooled Again」のレコーディングのことは、決して忘れない。ニューベリーにあるミックジャガーのすみか「スターグローブス」(古い城。現在はロッドスチュワートが所有) の広間でやったんだが、スタジオで髪が総毛立つ曲なんて、人生で幾つもあるわけじゃない。他に体験したのは、ザ キンクスの「All Day and All of the Night」くらいかな。

https://www.youtube.com/watch?v=NkWQEVFKr08

 


 ピートはやることがよく判ってた。僕はまだシンセサイザーを使ってなくて、あれは全てピートが家で事前に録音してきたものだ。彼は優れたレコーディングエンジニアでもあって、全てマルチトラックで録音して持ち込んでくるんだ。驚くべきデモだよ。往々にして、後はただ、デモのシンセサイザーやピアノのパートにクリックを付けて、バンドのメンバーがそれに合わせて演奏すればいいだけだったりする。


 僕の仕事は、他のメンバーが、ピートの要求に応えつつ、僕が必要と思うことを満たしつつ、かつ、自身がちゃんと貢献してるって満足感を得られるようにすることで、これはすごく大変だった。ジョンエントウィッスルなんか、「Who's Next」には批判的で、もう僕とは仕事をしたくないって言い出したくらいだ。普通のスタイル、普通のサウンドで弾くようにしむけたからだが、それが必要だったんだ。結局は、また仕事をしたけどね。

 
 それはキースムーンも同じだ。何曲かは暴力性じゃなくて、代わりに思慮と抑制が必要だった。だが、それは彼本来の叩きかたとは違う。ロジャーダルトリーも含めて、皆に全体像をイメージしてもらうのは難しかった。だが、「Who's Next」がこのバンドの真価を発揮してないとは、誰も言えないだろう。

https://www.youtube.com/watch?v=rIbMbXjbW98

 

ザ フーの記事

https://ameblo.jp/kaikosumiiyoshi/entry-12295511626.html

 

イーグルス(イーグルス) 

 

 デヴィッドゲフィン (ゲフィンレコード・アサイラムレコード)の社長がコンタクトしてきて、小さなクラブに演奏を見に行った。はっきりいって、何も印象に残らなかった。フォークバンドがロックンロールバンドっぽくやろうとしてるんだが、全然、さまになってないんだ。だが、ゲフィンがしつこくしつこく言ってくるんで、リハーサルに付き合うことにした。アメリカから深夜に何度も何度も電話をかけてくるんだよ。頭に来たよ。ちょっと休憩をとろうかって時に、誰かが「ランディ (マイズナー) の例のバラードをやってみようか」って言って、ピアノの回りにアコースティックギターを持って立って、4人で「Take the Devil」を歌い出した。仰天したよ。それで決まりだ。なので、アコースティックさを強調して、ボーカルのブレンドとアレンジに集中した。

 

  「Take It Easy」じゃ、バーニー (リードン) に倍速のバンジョーを弾いてもらった。アホかって誰もが思ってたが、効いてるだろ。それ抜きでも大した曲なのに、ちょっと加えたおかげで別ものになった。メンバーの何人かはあのデビューアルバムがそんなに気に入ってなかったが、判ってなかったんだよ。何曲かヒットしたら、あれでOKだったんだって、はっきりした。

https://www.youtube.com/watch?v=LfeNhwnO8hw

 

イーグルスの記事

https://ameblo.jp/kaikosumiiyoshi/entry-12282082658.html

 

 

Slowhand エリッククラプトン

 

 レコーディングは実に楽しかったよ。2時半に最初のセッションを始めて、エリックが「Wonderful Tonight」を弾いて、5時には出来上がってた。そして、他の曲も同じように作ってったんだ。曲はそれなりに揃ってたし、バンドも素晴らしかった。彼はいつも十分な数の曲を用意するのに苦労してて、「Lay Down Sally」はスタジオでマーシーレヴィと作った曲だ。J・J・ケイルみたいな レイドバックした曲調にしたくてね。(cocaine)なんか、そのまんまだ。

 

  このアルバムまで、あんまりエリックには惹かれなかった。彼の、んー、悪癖 (ドラッグのこと) のせいだ。だが、この頃には良くなってて、パティと幸せそうだった。ある時なんか、彼女から「エリックの遅刻を許してやって下さい」なんて書いて送ってきた。私が学校の先生みたいな雰囲気なんで、お母さんみたいにしてそれをからかってたんだよ。だけど、エリックは本当に怠け者なんで、厳しくしてないといけない。すぐサッカーをしにいなくなっちまう。なので、引き戻してギターを手に持たせて、「ほらほら、ちゃんとやるんだよ」。すると、とてつもない演奏をするんだ。

https://ameblo.jp/kaikosumiiyoshi/entry-12302055546.html

エリッククラプトンの記事

 

 

ザ クラッシュ (Combat Rock)

 

  ジョーストラマーほど、一緒に仕事してて楽しい奴はいないな。愛すべき奴で、しかも、信じられないほど才能にあふれてる。彼とミックジョーンズでニューヨークのスタジオに2週間こもって、ミックスダウンしようとしてたのが、ちっとも出来てこなかったんだ。それで、マフ ウィンウッド (A&Rレコードのトップ。スティーヴウィンウッドの兄) が、俺に頼んできた。パンクなんか少しも興味なかったけど、彼らの技術、発想、ユーモア、歌詞の良さには圧倒された。

 

  だが、現場はめちゃくちゃの極致だった。朝10時にジョーと楽しく仕事を始めて、気合い入れて、あれこれ片付けていく。まるでビルマのジャングルをナタで切り開いていくみたいな作業だった。すると、夕方7時にミックがやってきて、その日にやったことを聴かせると、むっつりした顔で、ことごとくけなし始めるんだ。「悪かったな。だが、これで出来上がりだ。君は朝10時に来るはずたっただろ」。そう言ったら、彼は怒り狂って出て行った。

 

  翌朝は2人で大喧嘩してた。そこに私が入って行って、ジョーと2人で仕上げた。彼はすごく協力的だったが、なんだか悲しかったよ。あのアルバムには古典として残るような演奏が入ってるが、誰がミックスしようと、そうなったんじゃないかな。

https://ameblo.jp/kaikosumiiyoshi/entry-12273168731.html

クラッシュの記事

 

 

ボブディラン(Real Live)

 

 ディランに初めて会ったのは、1969年に (ニューヨークの) ラガーディア空港でだ。ヤン・ウェナー (ローリング・ストーン誌の創業者) が紹介してくれたら、こう言うんだ。「ストーンズやザ・ビートルズとアルバムを作りたいんだけど、君ならうまくやれるかな」。本気かよ!って。だが、キース (リチャーズ) とジョージ (ハリスン) は乗り気になってくれたのに、他のメンバーは全然だった。

 

  

  1984年に、ヨーロッパ・ツアーの6公演を収録して欲しいって言ってきた。それで、フランスの初日にステージでマイクを調整してたら、クルーにつまみ出されちゃってさ。その時には、もうディランとは目も合わせなかった。彼は自分の周囲に高い壁を作って、そこら中に手下を置いてた。だが、結局は楽しく喋れるようになったな。

 

 

 最後の公演の後、ラフミックスを彼に送ったら、もう毎日、電話してくる。実に不思議だった。しかも、彼がアルバムに入れたいって選んでくるのは、最も出来の悪いテイクばっかりなんだ。これは試されてるのか、って気がしてきたよ。さもなきゃ、彼は音痴なのか、って。そのテイクがなぜダメなのか、丁寧に説明してったら、最後には、私の思うようにやらせてくれるようになった。

 

 彼のプロデュースをしたいって、ずっと思ってた。だが、ライブ盤となると、話は違う。大したバックバンドじゃなかったし、何とも妙な経験だったな。

https://ameblo.jp/kaikosumiiyoshi/entry-12268533009.html

ボブディラン