追記します。
ロバート ラム(ヴォーカル キーボード ソングライター)
ミュージックレーダー 2014
〇私の人生を変えた10枚のレコード
作曲家として、私は感情的な内容を聴く。感動することに憧れている。
ザ ビートルズ - 『リボルバー』(1966年)
誰もがビートルズの大名盤として『サージェント ペパー』を選びたがるのは知っているが、私にとっては『リボルバー』がそのアルバムの入り口だった。私は最初からビートルズのファンだったが、このアルバムを聴いたとき、彼らが深化し、スピリチュアルなものや社会に対する批評にのめり込み、新しい作詞作曲の方法で本領を発揮しつつあることがわかった。
『エレノア リグビー』の美しさは、カーラジオから聴いていても、(私の目)に飛び込んできた。すべての曲が、重要な順序で流れているような感じがした最初のポップ アルバムのひとつなんだ。その順番はレコード全体をどのように体験するのかということを意味していた。
『Got To Get You Into My Life』を聴いたとき、"ワオ、このホーンを見てみろよ!"って思ったんだ。そんな演奏はメインストリームのポップスではあまり聴くことがなかったから、本当に大きな衝撃を受けたよ。
ジョン レノン - ジョン レノン/プラスティック オノ バンド (1970)
私にとって、このアルバムは稀に見る美しさと骨身にしみるような感情的誠実さを持ったアルバムだ。ビートルズは解散し、ジョンは自分ひとりで何かをする必要があった。彼は多くの点で成功した。これは世界で最も重要なアーティストの一人による重要な声明だ。
クラウス ヴォーマンがベース、リンゴがドラム、そしてジョンがピアノかギターを弾くという、曲に対するミニマルなアプローチが大好きなんだ。このサウンドは、私が何度も真似しようとしたものだ。ビッグバンドと仕事をしたことがあっても、こういう骨太で生々しい美学に惹かれるんだ。ジョンは、サウンドに余計なものを重ねる必要がない、という核心を突いていた。
スーパーセブンティーズ
僕らメンバーはみんな大学生だった。僕らは夏になり学校が休みになると、みんなでバンドを作ってラスベガスに演奏に行くことが出来ると思ったんだ。そうするとたくさんお金を稼ぐことが出来る。その時、僕らは基本的にリズム&ブルースを演奏したかっただけだった。
そんな時に僕らはビートルズが(サージェントペパーズ)をしていたのを聴くことになった。書かれている曲はもはやリズム&ブルースではなく、演奏されているのはただのギターやベース、ドラムではなかった。彼らはオーケストレーションをしていた。僕らは思ったんだよ。これなら僕らも出来るって。だから、僕らの話をするのは実は難しい話じゃない。僕らはただ、ブラスを使ってビートルズになりたかっただけなんだ。結局、僕らの出自は本当にそういう事なんだよ。
シカゴを作り最初のセッションで演奏したのはビートルズの(Got to get you into my life )だった。
僕らは拡散していくポストビートルズ時代のアーティストの一つだった。僕らはビートルズが彼らのすべての楽曲を残した後に気付くことになった。僕らはそのロックバンドのある一面を模倣した世代の一つのバンドだったんだって。
僕はジャズやリズム&ブルース、そしてクラシックでさえ愛していたんだ。だけどジャズの連中をあんまり好きになれなかったのは、彼らがビートルズをバカにしていたからだ。だけどその他の僕らの周りの人間はみんなビートルズを好んで演奏していた。
テリー キャス
1975年、『シカゴVII』リリース直後の雑誌インタビュー
◎音楽について 。。 インスピレーションは大抵、個人的な出来事から得ている。
◎聴くのは。。ブレッカー ブラザーズ、アヴェレージ ホワイト バンド、ザ バンド、ビートルズ、ジミ H.
◎ギターについて 。。。 テレにファースト アルバムの古いハムバッカー ピックアップを付けて使っている。エッジを効かせるためにコンデンサーを2つほど追加している。
◎ステージで35Wのアンプを使うことについて -。。。ステージでは僕しかギタリストがいないから、他のギタリストと競う必要がないんだ。地獄のような大音量だよ。
◎ジミ ヘンドリクスについて 。彼はあなたの演奏を気に入っていた?。。 そうだね。彼とは何度か会ったが、話すことはできなかった。彼の家に招待されたよ。
ピーターセテラ(ヴォーカル ベース ソングライター)
ノックスニュース 2017
言っておくけど、今が人生で一番楽しいんだ。陳腐な言い方だけど、ステージでこれほど楽しいことはない。素晴らしいグループに恵まれている。自分のやりたいことができる。音楽的にもパフォーマンス的にも、忘れられない瞬間があるんだ。
〇1944年にシカゴで生まれたセテラは、初期のロックンロールに夢中になるのに最適な年齢で、10代でギターを弾き始めた。彼の耳に最初に飛び込んできたのは、リトル リチャードが歌う "Good Golly Miss Molly "か、ボ ディドリーの曲だったという。
影響を受けたのは、リトル リチャード、ボ ディドリー、リッチー ヴァレンス、ジミー リードだね。
〇しかし、セテラの声からそれらの影響を聴き取るのは少し難しい。後に彼が好きになったグループ、ザ ビートルズの影響はもう少しはっきりしている。
昔、音楽をやっていた友達の父親が、聴くものすべてから学べと言ったんだ。好きなものと嫌いなものを学び、好きなものを取り入れ、嫌いなものを捨てる。聴くものすべてから何かを学ぶんだ。そしてある日、この声が自分の中から出てきて、それが自分のものになる。...ソロアルバムを作り始めるまで、自分が本当は何者なのかが分からなかったと思う。シカゴとの最後のアルバムと最初のソロ アルバムは、自分の声であり、自分の役割だった。自信が持てて、リラックスできた。
〇セテラはシカゴの名曲の数々でリード ヴォーカルを務めていたが、1970年代後半から80年代前半にかけては、ラジオでシカゴの声を担当していた。セテラはそれは自分で計画したことではなかったと言う。プロデューサーのデイヴィッド フォスターと一緒に曲を書き、バンドの他のメンバーが良い曲をあまり作らなかった結果だと彼は言う。
デヴィッド フォスターと私は曲を書き始めた。どうするんだ?価値のない曲を選ぶのか?そして、ちょうどその頃、ビデオが流行り始めていて、ビデオの監督は『さて、シンガーは誰だ?』って言うんだ。リード シンガーはいつもビデオの主役で、それが私だった。だから、いろいろな軋轢が生まれ、それが原因で別れることになったんだ。彼らはそれが気に入らなかったんだ。でもね。どうしろって言うんだ、書くのをやめろって?。
〇かつてのホーン サウンドを強調したグループは衰退し、ラジオで聴く限り、シカゴはロマンチックなバラードで知られるようになった。
みんな、(シカゴが始まった頃はバラードばかりだった )って言うんだ。それは真実じゃない。実際、レコード会社はシングルにしたい曲を選ぶとき、いつもそんな曲を選び、アップテンポの曲は見送った。アップテンポの曲も書いたけど、バラードほどヒットしなかった。
〇全体として、セテラは、人々がまだ興味を持っている作品群を持つことは素晴らしいことだと言う。
しかし、私は常に前を見ている。私は前を見ている。ここに座って太っているわけじゃない。今は楽しみながら、体型を維持し、見栄えを良くし、次のプロジェクトを待つ間、こうしているんだ。ショーでは何曲か新曲をやり始めている。だからライヴでも新しい曲を聴くチャンスがある。
新曲をやりたい。なぜなら今の音楽には問題がある。とても使い捨てなんだ。『ああ、わかった。次にスターになれそうな人を1枚のレコードのために集めよう』って感じ。もうアルバム自体がない。アルバムに1曲か2曲以上いい曲を入れられるアーティストはほとんどいない。テイラー スウィフトやコールドプレイのように、大物であり続けることができるアーティストだ。確立された伝説的なアーティストたちは、どこへ行けばいいのかわからない。私もどこへ行けばいいのかわからない。でも、今取り組んでいることが3つか4つある。
〇セテラは、音楽的にやりたいことの中で、まだやっていないことがあるという。
いつか、サムとデイヴのような男女デュエットをやってみたい。もう誰もやっていない。スティーブ ウィンウッドみたいな人とやれたら最高だね。ポール マッカートニーとかね。ポール マッカートニーとやりたいね。
〇セテラは、新しい世代が彼の好きな音楽と彼の作る音楽の両方を発見するのは良いことだと語った。
巡り巡ってくるものなんだろうね。僕には33歳と20歳の娘がいるんだけど、彼らは僕がビートルズを聴いて育ったから、古い音楽にもリスペクトを持っているんだ。私のショーにも若い人たちがたくさん来るようになった。私が子供の頃、あの歌を歌っていたあの人みたいな感じだ。彼はそこにいて、今でもいい歌声を聴かせてくれるってね。
◎ビートルズは好きですか?あなたのビートルズの一曲は?
他の皆と同じようにもちろんビートルズはとても好きだね。特にポールマッカートニー。僕は作曲から演奏まで大きな影響を受けた。好きな曲はいくつもあるけど、今日、思い出したのは(ヘイ ジュード)だね。
僕らがビートルズより優れていたのはきっと、彼らより長くバンドを維持出来た事だけだった。だけどその代わり長くやるには苦労が付きまとうんだよ。低迷していた僕らのバンドは遠からず崩壊しようとしていた。(シカゴ)がそれまで何故崩壊しなかったかというと、それはただ僕の存在が希望だったからだけだよ。僕はヒット曲を書いたからね。最初は皆のバンドだったのにその頃にはまるで僕の肩に世界がのしかかって来ているみたいだった。(ヘイ ジュード)みたいにね。
デヴィッドフォスターが僕にベース演奏のミスを指摘したんだ。するとメンバーが動揺し始めた。僕はデヴィッドを連れ出してこう言った。(みんなの前でミスを指摘するな!このバンドは何で持っているのか知ってるのか?)ってね。あの後、僕らはヒットを出すことが出来たからバンドは維持できたんだ。(ヘイジュード)の(世界のすべてを自分の肩で背負う必要は無いんだ。)って所だね。音楽には魔法が有り、力があるんだ。あれは本当に良く聞いたよ。
グラミー
僕はまず教会で音楽を学んだんだ。アコースティックギターを習った後に、僕らの前にビートルズが現れた。彼らのアルバムが出るたびにベースはまるで魔法じゃないかって思ってギターよりベースの方にはまっていったんだよ。
僕がシカゴをやめた時になぜ辞めたのかってよく聞かれたけど、僕がこのバンドに合ってるなんて思ったことはなかった。僕はこんなのはバンドじゃないって思ってたからね。彼らとセッションした最初の日に僕は(合ってないからやめる)って言ったんだけど彼らは取りあってくれなかったんだ。彼らは僕が参加した最初のセッションでビートルズの(Got to get you into my life )を聴かせてくれたんだけど、最低だと思ったね。
ビートルズカヴァー
ビートルズの影響と言われて一番わかりやすいのは( If You Leave Me Now)だね。あの曲には少しだけポールマッカートニーの魔法の粉がかけてあるんだ。
グラミー
ベースプレイヤーマガジン
◎貴方のエクセプションズからシカゴに移行する時期はあなたにとって随分重要な時期なんですよね。
それは本当に僕の目覚めの時期とでも言う様な時代だった。ビートルズが現れて全てを変えてしまった。僕はそれまで違った分野の他人の音楽をずっと演奏しているだけだった。そして、僕はまだ僕のヴォイスを持っていないって事を理解していた。だけどビートルズはそういった事は自分たちで変える事が出来るんだという事を見せてくれた。彼らはつまり自分たちの音楽を自分たちでやっていた。まさにビートルズは(僕らの世代の音楽)だった。
そしてポールマッカートニーのベースラインは純粋に天才的だった。それはほとんどまるで彼が他のベースプレイヤーとは全く違う楽器を演奏している様に思わせた。僕はエクセプションズで使うために64年のホフナーを買った。だけどそれは低いベースっぽい音を出さなかった。それをシカゴで使うのは度胸が必要だったので、63年のプレシジションベースを買い、ペイズリーに塗った。
その後、僕は他の素晴らしいロックベーシストの存在に気が付いた。例えばジェマーソンやマッカ―トニー以外にはジャックブルース(クリーム)やジョンエントウィッスル(ザ フー)みたいなプレイヤーだよ。そしてそのユニークさから、本当に僕の心に響いたプレイヤーは(フリー)のアンディーフレイザーだった。
◎他のベースプレイヤーについて話しましょう。
70年代に僕が強いインパクトを受けたのはウィリーウィークスとジャコパストリアスだよ。
僕が初めてウィリーの演奏を聴いたのはダニーハサウェイのライブでの(Everything Is Everything)だった。その時、僕はぶっ飛ばされた。それまで聴いた中で一番素晴らしい演奏だった。彼と会った時には彼は僕の家にきてアコースティックベースを弾
いてくれた。
ジャコを聴いたのは70代半ば、僕は彼の演奏を聴いた後、彼に会った時に自分の名前を名乗るのが憚られたんだよ。彼は率直な人だった。彼は(もしも僕をセッションに呼んでくれるなら、僕の演奏で君を魅了することができるよ。だから僕を呼んでくれ)って言った。
それから、キャロルケイ ジョーオズボーン、ダックダンそしてチャックレイニーといった伝説のプレイヤーを知るようになった。そういった連中に会うことは僕がポールマッカートニーやブライアンウィルソンに会う事が出来るのを好むのと同じぐらい心がくすぐられるよ。
◎貴方は自身のキャリアについてどのように思いますか?
全体として僕はシカゴとそのキャリアについてとても誇りに思っている。僕には本当に後悔が無いんだ。時に僕はもっと正式に訓練されたミュージシャンや作曲家になるべきだろうと思うことがあった。そのためには他の楽器の演奏を学び、スタジオの使用方法についてもっとよく学ばなければならない。
だけど、僕はポールマッカートニーや他のトップアーティストが同様な事を言っているのを聴いたことがある。だからそんな事は特別に気にしなくてもいいって思ってる。もちろん僕が僕自身をそういったトップアーティスト達と同じクラスに位置付けているわけじゃないんだけどね。
それからもし数年後に僕がベースプレイヤーとしてインパクトがあったなんて話されることがあるとするなら、まったく素晴らしい事だよ。
フォーベースプレイヤーズオンリー
僕のシカゴにおいてのベースのアプローチ方法、つまり僕の第一の目的はメロディックであることだった。そういった時、マッカートニーは僕の頭の中にいた。それにジェマーソンと僕のリズム&ブルースのルーツは僕の意識下にあった。
そういった影響なしには僕はシカゴで強いグルーブを刻むことは出来なかった。そしてバンドのメンバーは僕に良く演奏について(冷静に)って言った。だから僕はビートルズやモータウンでなされたベースプレイングの様に思慮深く演奏した。
サウンドシティー 1986
◎(インタビュアー)私はいつも思ってたんです。もしあなたに会い、話すことが出来るのならあなたの楽曲が私にとってどれくらいの意味を持つのかを話さないといけないって。貴方の曲は本当に真摯に私の人生に素晴らしい影響を与えたんです。もしピーターセテラフリークが世界にいるとするのならそれは私の事なんです。
ありがとう。素直に嬉しいよ。それはまるで僕が数年前に初めてポールマッカートニーにあった時の様だね。僕は彼に会えた時に、僕自身に言ったんだ。(彼に挨拶をして僕がどのくらい彼の音楽を愛しているのか彼に伝えないといけない)って。僕は彼に近づいて言った。(やあ、ポール。僕の名前は。。。。)
僕は自分の名前を忘れたんだ。するとポールは言った。(知ってるよ。君はピーターセテラだろう?元気かい?)
ピーターさん
ピーターセテラ ビートルズカヴァー