サイモン&ガーファンクル | ビートルズやメンバーへのミュージシャンの発言集 The Beatles  影響 評価 

ビートルズやメンバーへのミュージシャンの発言集 The Beatles  影響 評価 

 ビートルズやビートルズのメンバーに対するミュージシャンの発言は今までたくさんありました 。おそらくこれから先もたくさん発言される事でしょう。ここはビートルズが与えた影響を記録していく場所です。

追記しました。

 

アートガーファンクル(ヴォーカル)



◎Your Paul ,My Paul(そっちのポール こっちのポール)



            サンデーテレグラフ紙  バークス 2015年

 僕は70年代に結婚してコネチカットに移住し、近くの私立高校で数学を教えた。僕がサイモン&ガーファンクルの成功から離れ、数学教師になるっていう、僕の人生でも変な段階の時期の事だよ。僕が数学を教えていると。生徒が質問するんだ。(ビートルズってどんな感じでした?)




◎ビートルズについて伺います。ジョージハリソンの才能はなんだか陰におおわれているような気がします。


  あるとき、パーティーでジョージハリスンが僕のところへ来て、こう言ったんだ。(僕にとってのポールマッカートニーは君にとってのポールサイモンだ。)って。それは心理的に彼らは僕らに同じ影響を及ぼしているって意味だった。この(ポールたち)は、僕らを脇に追いやっていた。きっとジョージハリスンはポールマッカートニーに抑え込まれているように感じていたんだと思う。そしてジョージハリスンは、僕とポールサイモンにも同じものを見ていたんだろう。これは真実だよ。ポールマッカートニーはバンドにエネルギーを与えるものすごいミュージックマンだったけど、同時に彼は僕らのもとから多くの栄光を奪い取って行ったんだよ。




◎ポールサイモンは(ナポレオンコンプレックス)を抱いていると思いますか?


 僕はイエスって言うね。学生時代、背の低いサイモンを可哀そうに思い友人になったが、その愛や友情がモンスターを創り出した。


(1971年の絶頂時に解散したことに対して)アンチポールサイモンなことは言いたくないが、栄光を楽しまず、それに背を向けるなんてひねくれている。クレイジーだ。


 (再結成について)その半分である僕はいいんじゃないか、2人が生きている間に?って思うよ。でも、僕はもう何十年も同じところにいる。僕はまだ1971年と同じ場所に居るんだ。




           映画  ビートルズストーリーズ 2011


 ニューヨークはせわしないけど、ダコタハウスは緑豊かなセントラルパークの向い側にあった。ジョン レノンと言えば思い出深いねえ。出会いはある晩、ヨーコとデヴィッド ボウイも一緒でダコタにある自宅に呼ばれたんだ。70年代半ばでイベント(グラミー賞)に参加した帰りだった。ジョンとヨーコの自宅に行った。


 入るなりジョンは初対面の僕を寝室に連れ込んだ。そしてあまりにも無防備に僕にこう言ったんだ。(アートは最近そっちのポールと仕事をしたよね。実は僕もこっちのポールから仕事の打診を受けて迷ってんだ。ポールと仕事してどうだった?)

 
 なんと比べてたんだな。偉大なレノン&マッカートニーをこっちのポール&アートとね。試されてた。果たして僕は彼と対等になれるほどの存在か。


 さてどうしよう。。。。僕は言った。(音楽的にはゾクゾクするほど溶け合っていたじゃないか。あの音作りの楽しさや共同作業の喜びに立ち返れ。過去の《わだかまり》など捨てることだ。こっちのポールとは調和してる。今は忙しく活動しているよ。充実するぞ。)とね



◎ジョンレノンは復縁を望んでいるようでした?


 そう思えたよ。話も単純なようだったしね。つまり、人間関係の問題ではなく音楽の問題だったからね。。。本当に。。。こういう話ってなかなか通じにくいけどさ。君(ミュージシャン)になら経験はあるだろう。

 

 


          ローリングストーン 1985

 ジョンが死んだ日のことは忘れられない。その晩 僕がマイアミのスタジオでヴォーカルを取っていたとき、セカンドエンジニアがそれを遮って(恐ろしい知らせを伝えなくちゃならない)っていわれた。長い休憩を取った後、仕事を再開しようとおもったけど、出来なかった。僕はコントロールルームに行って、(今夜はもう終わりだ、仕事が出来ない。話ができない。何も言葉にならないんだ)っていった。


 ジョンとはちょっとした知り合いだったけど彼は驚くほど魅力的だった。ダコタの彼の家で夕食をとった後、彼は僕をベッドルームに連れ込んだ。僕がベッドの端に座り込んでいると彼は言った。(きみとポールサイモンの仕事のやり方について聞きたいんだ。ナッシュビルで一緒にレコーディングしたばかりだろう?)僕等は(マイリトルタウン)をちょうど収録した所だった。(ポールが僕の所に電話をかけてきたんだ。ポールはアラントゥーサンとのプロジェクト(アランはポールのロックショーに参加している)をやっていて、僕にレコーディングに加われるかどうか知りたいっていうんだ。どうすればいいと思う?)


 その時の僕の気持ちが想像できるかい? ジョンが僕にアドバイスを求めてるんだよ。その瞬間、夢じゃないのかって体をつねりたいと思ったほどだった。そうすればすぐに夢じゃないって分かったから。なるほど彼が全世界を魅了したわけだって。彼はすごく人を喜ばせるんだ。


 筋が通っていて思いやりがあって、リアルで根拠があってうっとりさせるようなことを僕になんて言えばいいのか彼には分かっていたんだ。そして彼はすべての人に同じような事を言った。彼自身がいわばヒット曲で彼の存在そのものがヒットだった。


 僕はこう答えた。(ジョン、僕ならやるよ。個性はすべてひとまず置いておいて調和することを楽しむんだ。一緒にサウンドを作ったことがある人と再び音楽を作る事とそういった人とずっと一緒に音楽を続けるという事は素晴らしいと思うし、大きな喜びだよ。)って。これは僕の経験から来るものだった。でもね、彼は僕のアドバイスには従がわなかった。

 

 

 

 〇人生を変えた10のレコード   ミュージックレイダー 2019

 

 

 

 アルバムを作るのはとても楽しい事だった。正直に言うと僕はビートルズを追いかけていたんだ。かつてそこにはラバーソウルとリヴォルヴァ―があったんだよ。僕はそこに(モデル)を見たんだ。ポールサイモンと私はこの十二曲入りのアルバムに恋をして、この新しい出来事にたいしてどのように仕事ができるのかを考えたよ。

 

Enrico Caruso - Aria from The Pearl Fishers (circa 1904)
Nat King Cole - Too Young (1951)
Nat King Cole - Nature Boy (1948)
The Crew Cuts - Sh-Boom (1954)
Frankie Ford - Sea Cruise (1959)
The Everly Brothers - Songs Our Daddy Taught Us (1958)
Sam Cooke - You Send Me (1957)
Johnny Mathis - It's Not For Me To Say (1957)
The Beatles - Here, There And Everywhere (1966)

Nichols & May - Nichols & May Examine Doctors (1962)

 

 ビートルズの全てのレコードのうちで“Here, There And Everywhere’は本当に僕を酔わせたんだ。 これは楽曲が可能とする限りもっとも美しい曲だよ。ポールマッカートニーがこの曲を書いた週に彼の人生に一体何が起こったんだろう?だってこの魅惑的な何かを思いつくためにはある種の魔法みたいな気分でいなければならないだろう?

 

 

 僕はビートルズのエンジニアだったジェフエメリックと一緒に仕事をしたことがある。僕は2つのアルバムで彼と一緒に仕事をした。僕らは共同プロデューサーだった。ある日、彼は、コントロールルームで仕事をしていた。かつて彼がしていた様にテープをカットしていた。彼は僕に背中を向けて編曲していて、僕らがほとんどしなかったビートルズについての話をした。

 

 僕は思った。(彼は多分、(偉大なビートルズ)の話を採り上げることについて飽き飽きしている。)けれど、その時一度だけ、僕はその題目に挑戦してみた。すると彼は肩越しに僕に質問を投げかけた。(君は(Here, There And Everywhere)(ビートルズの曲、ジェフエメリックの著書名)が好きかい?)僕はそれがテストだとわかった。僕はその返答にアタフタした。すると彼は僕の様子を見て言った。(OK。君はテストにパスしたよ(笑))。

 

 本当にこの楽曲みたいなものは存在しないんだよ。もし楽曲というものが雰囲気を醸し出すものだと定義できるのであれば、その時、(Here, There And Everywhere)みたいな曲は他には存在しないんだ。最高だよ。

 

 
 
 
 
 

ポール サイモン(ソングライティング ヴォーカル ギター)
 
 
      2023  グラモフォン
 

  父親は音楽家でベーシストで、クラシック音楽を聴いていた。彼のお気に入りの曲はマーラーの第5番で、定期的に私のために流してくれたが、私が覚えているのは、フルオーケストラの力強さだった。後年、その曲をもう一度聴くと、父親と一緒にいて、彼が私をマーラーの愛好家にさせようとしていたことを思い出した。

 

 

  クラシック音楽に関しては、私自身の好みは狭く、サティが好きで、印象派やドビュッシー、その流れがある程度好きで、それは流れるようなラーガなどを聴く前のトランスミュージックみたいなものだった。

 

 

  ソングライティングについて思うんだけど良い曲を作るということに関しては、何も持っている必要はない。ただ、その才能はめったに起こらないか、一生に一度しか起こらない。あるいは自分で作らなくても偉大なプロのソングライターと出会う才能を持つ以外は、何も必要はない。ハンク ウィリアムスを例に取ると、彼の曲はハーモニー的にはとてもシンプルだが、とても力強く、強いメロディーを持ち、その言葉はとても親しみやすい。彼の曲は素晴らしい。

 

 

  あるいは、ビートルズが初期の「She Loves You」や「I Want to Hold Your Hand」といったものから、ポールマッカートニーがやった複雑なハーモニックな楽曲へと進化していったような方法は素晴らしいよね。それについて批評家はただ『ポールは転調している。』と言うだろうが、そういった分析は重要ではない。曲が美しければ、それは長く生き続けるんだ。

 
 

  僕の音楽には「The Sound of Silence」のようなコードや構成がとてもシンプルな曲だけど、僕が書いた曲の中で最も長く生き続けるかもしれない曲から、もっと複雑でブリッジが重要な変化している「Still Crazy After All These Years」みたいに興味深いものまでさまざまなものがある。

      
 
  ソングライティングの場面での私の人生で少なくとも何度か経験したことなんだけど、何かが起こる時、その起源がわからず、ただただ私を通してやってくるだけなのだということを知っていた。最初の曲は「サウンド オブ サイレンス」だろう。この曲を書いたのは22歳だったので、自分が何をやっているのか全くわからなかった。「Bridge over troubled water」や「Graceland」など、他にもそういった曲はあったが、「Graceland」を聴くと、時には物事が起こり、それが自分の中を通り抜けるときに台無しにならないようにするだけで良いということに気づくようになった。
 
 
 
      2017年   ローリングストーン誌
 
 (再結成について)ない。問題外だ。僕らは話すことさえない。
 
 
  僕らとビートルズを盛んに比べたがるけど、僕等はレノン=マッカートニーじゃない。なぜなら僕が曲を作っていたからだよ。僕らとビートルズの共通点はすでに解散したという所かな。



 僕はビートルズではジョージハリソンと一番親しかったんだ。彼は驚くべき人だった。ただのミュージシャンとしてだけではなくて、とてもオープンで優しかったんだ。

ジョージと共演
 
 
 ジョンレノンと聞いてまず思い出すことは彼の詩、そして歌、そして性格。とても強烈な人だった。だから彼を突然失うことは心に穴が開くようだったよ。喪失感は表現できないよ。

 
ジョンfケネディーとジョンへの追悼

 
 ポールマッカートニーは何よりソングライターだ。60年代、彼の曲をスタジオで聴いて興奮して、その後、家に帰り冷静になって考えるんだ。(世の中で一番優れているソングライターはポールサイモンじゃない、ポールマッカートニーだ。)ってね。私はボブディランに傾倒した時期もあったけど、あくまでもそれは一時的なものだった。


  その頃にEMIのサー何とかっていう社長に会ったことがあるんだ。彼はビートルズのアルバム(ヘルプ)の頃からマッカートニーのシングルが良く売れるんだって言っていた。だからビートルズの頃のマッカートニーは自信に溢れていただろう?僕はいまだにポールマッカートニーやジョージガーシュインの様な曲を書いてみたいって思う事があるよ。つまり、彼らは何よりすべての人の為の曲を書いたんだ。


             


           ファミリーレコード 2011年 6月 インタビュー


◎あなたは最近のインタビューで華やかな現代のポピュラーソングライターの群れの中であなた自身をポピュラー音楽のトップソングライターとしてみなしていないと述べていますね。ではあなたの考えでは誰がトップソングライターなのですか?



ポールサイモン: まず僕は第一の層としてジョージ ガーシュインとバーリン、ハンク ウィリアムズをおくだろうね。そして、そこには多分ポール マッカートニーも入るだろう。それからリチャード ロジャースとローレンス ハート(マイファニーヴァレンタイン サウンドオブミュージック)をおくだろう。

 それから第二の層としてジョン レノンをそこにおくだろう。そしてディランがいるだろう。それからボブ マーリー。僕もおそらくそこにいるだろうね。



           インタビュー

 ポール マッカートニーはここぞという時に自分で決める事が出来たんだよね。(明日に架ける橋)は僕の曲だけど、僕のギターも声も使われなかった。


            1992年 ローリングストーン


 レコード会社は基本的に我々には何もしてくれない。かつてのミュージシャンは自分で曲を作らず、ヒット曲を提供されて、いらなくなったらお払い箱にされた。今でもレコード会社の対応は基本的に何も変わっていない。僕がアーティーと別れて一人で音楽をやっていこうとした時もレコード会社がしてくれたことと言ったら(アートと別れたらお前の音楽なんか誰も聴かなくなるぞ)っていう言葉だけだった。


 そしてミュージシャンをやっていて誰もがぶつかる壁はどうやって音楽を作るのか、ヒット曲を作る方法、自分が好きなサウンドを作る事が出来ない事だ。そういった時にミュージシャンは不満を感じる。幸いにも僕はそういう不満を感じる必要はなかったけどね。しかし、多くのミュージシャンはそれを自らでは解決できなかった。


 だから、僕が興味があるミュージシャンはこういった点を解決すべきだと気付いた自身がプロデューサーのミュージシャン、いわゆる(スタジオの中の王様)だ。例えばスティーヴィー ワンダー、ジョン フォガティー(クリーデンス クリアウォーター リヴァイヴァル)、ポール マッカートニー、リチャード カーペンター、プリンスといった人達だ。僕もそのうちの一人だ。



            2013年 インタビュー

 僕が一番興味を持っているソングライターはポール マッカートニーだよ。僕はポピュラーミュージックの分野でソングライターとして今までで一番優れていたのはマッカートニーだと答えることが出来るよ。僕は60年代に一方的に彼と競争してたんだ。普遍的な曲を数多く書けるのは僕か?彼か?結果として僕は負けたんだ。僕は良くマッカートニーの曲を聴きながら机の上に突っ伏して頭を抱えていたんだよ。だけど、きっとポール マッカートニーにはそんな経験なんてないだろうね(笑)。

 

 

 

            インスピレーション 2000年 12月

 

 僕の場合、曲作りとレコード作りはすごく密接につながっていて、だからこそ、ソングライターとして僕の聴覚の記憶がすごくはっきりしていることも、僕の作品の特徴のひとつだと思う。いろんなものの音(サウンド)をとてもよく覚えているんだ。ビジュアルよりも鮮明に。それがどういうレコードだったか、すごくマイナーなレコードも覚えているし、そのレコードのどこの箇所が好きだったかも、ドラムサウンドが好きだったのかも、覚えている。 

 

 

 14歳の時に感じていたそういうものがいつまでも僕の中に残っていて、今も結局は、その頃に耳にしたサウンドを繰り返しているだけなんだ、どんな時も。それは僕以外にはおそらくわからないことだと思うけど、僕にはどれがどの音につながっているか、はっきりとわかる。ほとんどすべてが少年期の音へと戻っていくんだ。 大きな影響を受けた音楽ということで言えば、60年代以降は何もないんじゃないかと思う。いくつかの例外を除いて。
 

 

◎現在は(あなたの)作品がリズム主体になっているが?  

 

 

 僕はメロディーの時代からは、ずっと前に抜け出してしまった。ずっと前に。そしておそらく、もう戻ることはないだろう。 

 

 僕自身、ロックンロール以前の音楽を聴くようになるまで随分とかかった。その何年も後に生まれた人たちには、どうやら60年代以前に遡ることができないようだ。 50年代のロックンロールなんて、誰も聴いてない。でも、あの頃にはメロディーがあった。 50年代の音楽にはメロディーがあったんだよ。ああいうメロディーが僕は大好きなんだ。 50年代初めの音楽のメロディーは違っていた。もっとメロディックだった。それはビッグバンドや戦後の、メロディーがすべてだった時代にまだ近かったからだ。 

 

 アーヴィング バーリンのような素晴らしいソングライターの時代は、メロディーの時代だった。あの頃のようなメロディーが書ける人間は、もはやどこを探してもいないよ。ひとりとして。

 

(一瞬置いて)ポールマッカートニー以外は。 

 

 
 
◎曲の中で、ミセスロビンソンはどこかの施設にいるのですか?

 

  そうだと思うよ……ヒッピーパラノイア。
 
 

◎ ビートルズからの影響は? 

 

 

  それ程なかったと思うよ。不可抗力というか……彼らの影響力はそりゃあ大きくて、逃れることはできなかったけど、僕は必死に影響を受けまいとしてたんだ。ビートルズやボブ ディラン、ローリング ストーンズからね。

 

 

 ◎ポールマッカートニーは「明日に架ける橋」を聴いて、「レット イット ビー」を書いたと最近発言していますが 。

 

 

   マッカートニーがそう言ったの?でも、彼はあらゆる音楽を聴いていたからね。ボブ ディラン以上に。耳に引っかかるものは何でも……例えば「明日へかける橋」はゴスペルのソングライティングに影響されて書いた曲だから、僕の影響ではなく、ゴスペルの影響ということになるよね。僕を通じて聴いたのかもしれないけど。

 

 

 ◎ゴスペル風には聞こえませんが? 

 

 

  そうだね。アーティの歌い方が違うからだと思うよ。僕たちの翌年に アレサ フランクリンが録音したヴァージョンを聴いてごらんよ。あの曲が歌われるべくした歌い方だったよ。

  

 

 

 マッカートニーと一緒に街中を歩いたら気付くことがあるんだ。街を歩いている人の反応で彼は今、活躍している人なんだってね。彼の音楽が今、現在の音楽と言えるのは結局は彼がその時の流行の音楽を追わなかったからだ。(流行の音楽)とは(その時の音楽)で(次の日)になればそれはすでに(過去の音楽)になる。マッカートニーはその時までの中での選ばれた素晴らしい音楽をやったんだからね。

 

 

 それは昔の音楽かもしれないけれど、洗練されているもので、芸術的だといわれているものをやったって事なんだ。その音楽にはメロディーがあり、転調がある。。。。だけど今や、そんなことはわからない。わからない。誰にも。分かるのは僕らみたいな古いソングライターだけだよ。それが君みたいに若い人には分からないマッカートニーの音楽の秘密だよ。流行の音楽ではないけど、今まで残ってきたのはどうしてだったんだろうね?

 

 

 

 

二人のポール