武家育ちながら今は貧乏長屋で父(佐藤浩一)と二人暮らしのおきく(黒木華)は、便所の肥やしを汲みにくる中次(寛一郎)に心を寄せ、中次の兄貴分の矢亮(池松壮亮)の三人を中心に、江戸時代に、おわいやという最下層の青年たちのくらしと、そのなかでも日々を生きる喜びと明日に向かう青年たちの心意気を示す、今までにない清新で、新鮮な映画だった。製作者側の意図としては、「江戸時代は資源が限られて、使えるものはなんでも使い切り、最後は土に戻そうという文化が浸透していた。人間も同じ」ということで、物語り的にも、江戸市中ででた肥やしを買い集め、江戸郊外の農村地域へ運び、肥料として売るということで、資源が周り、経済も回っているということを描いていた。
しかし、なにしろ扱う題材から言って、いきなりの汲み取り作業のアップだ。高齢域にいる私ですら初めはその露骨さにドキっとした。汲み取り式便所の経験者だがらわかる、だからこそ微妙だ。幸いというか気がついたら画面はモノクロだ(途中で川端の夕焼けシーンだけはカラーでした)。圧倒的な若い人には、おわいやという仕事や肥溜めとか、その世界が分からないのではないだろうか。そうするとこの映画の肝心なことも伝わらないのかと余計な心配もしていた。
おきくは、父が昔の絡みで襲われるときに後を追いかけその時に喉を刺され声を失う。しかし、声は失っても寺子屋で習字をおしえる。
江戸時代でも当然、誰からも貶まされ邪険に扱われる青年たちだが、おきくも声を失っても中次への愛を伝えようとしたり、青年二人も寺子屋で子どもたちにまじり、字を学ぼうとする。時代に挫けず生きようとする青年たちを、余計なものを外して純粋に描いていることは十分に伝わってくる。そういう意味では、久々に映画の持つ意味をあらためて教えてくれたような隠れた小さな一昨ではなかっただろうか。