先ず地理的状況から話しておかないといけない。
彼が生まれ育った尾道は私が育った三原市とは尾三地区という言葉が新聞地方版や公の行事やスポーツ大会の地区大会などでも使われてた。(それぐらい一体だから、ライバル心も強かったのだ)
家業の手伝いをするという名目もあって、いち早くバイクの免許を取らしてくれたので、尾道特に後に三部作の舞台となる千光寺山付近など必須の周遊地だった。また、高校三年生の夏休み最終日にだらしない夏を送った自分に喝を入れるということで、友達に手伝って貰って、夜中にバイクで尾道駅まで行って、そこから三原駅まで、確か12キロと記憶していたが、走りきったのだ。今思えば馬鹿みたいだが、尾道は我が庭の如くによく通ったところだ。
ライバル地域という点では1964年の東京五輪目指す列島改造で新幹線が開通して行くが、山陽新幹線ができるとき停車駅を巡って尾道と三原で争って、三原が停車駅になった。当時、しまなみ海道も、まだの頃、瀬戸内中央部で四国との窓口が三原だった。三原駅から三原港までは歩いてすぐでフェリー乗り場に行けた。港近くにはフェリー待ちに洒落た喫茶店があって、時々、文化人などがコラムなどで紹介していた。二階からは三原港に出入りする定期船や四国や島々へ行くフェリーなどがよく見えるのだ。高校生の頃や帰省した時には必ずと言っていいほど寄ったものだ。
ところが1979年開通するしまなみ海道の路線の広島側入り口が尾道に決まったあたりから、尾道、三原の力関係(?)に変化が出始めた。
そうした状況を背景に、お待たせしましたが、大林宣彦さんが時々、メディアに登場するようになり、80年代前半から尾道三部作で、いっきに尾道が全国区になって行くことになる。それどころか、我が庭のように行ってた尾道の街が、いわゆる聖地巡りのはじめだったのだろうが、街の中の雰囲気が変わり始めた。そして、その後言われるオタクっぽい感じの若い人が街のあちこちをあるくようになっていったのである。そこから、ずーと尾道は三原の上を行くという状況になって行く。聞けば平成の大合併の時にも、いくつかの島嶼部が合併相手を尾道と三原で争い、尽く尾道に合併されたたいう。大山祇神社や平山郁夫美術館で有名な瀬戸田町も湊かなえさんの出身地の大手造船所もった因島市まで尾道市に合併された。(湊かなえさんの「望郷」「Mのために」などにその辺のことが出てくる)
そんな状況に対して、三原の人は大変複雑で屈曲した思いを抱くのだ。その頃、都会生活をやめて郷里で暮らしていた下の兄貴はそうした人の代表で「だから三原はダメなんじゃのー、大林宣彦のような人がでんじゃろ、仮に居たとしても上手く使う人がおらんのよの」というような意味のことをよく言ってた。
こうした屈折した思いがあったからか、原田知世さんの歌などとともに、尾道三部作が盛んな当時すでに東京で社会人をしていたが、同じ瀬戸内の街が脚光を浴びていた時に、誇らしさはあるものの、なぜか映画館にまで足を運ぶという事は、しなかったのだ。できなかったのか、よく分からないが、結果的には今の今まで、まっとうにはみていないのだ。ただ、先日、追悼番組を見ていたら、大林宣彦さんは、行政がやってきた事に「故郷破壊だ」として何十年か尾道を舞台にしてはこなかったとか、映画作りへの反省などから平和への貢献を意識してきたとのこと、なので新作は是非観たいと思った。
先に挙げた湊かなえ作品ですら、あの因島出身でしかも島を舞台にした小説と知っていながら、実際に自分で買って読んだのはつい数年前だった。
こうした屈折した気分というのは、もしかして広島県人的なものかも知れないということも感じる。間違いなく広島カープファンなのだが、ことと次第ではガープの事をいったん否定するようなことを言っておくというような行動をようみるのだが、これは別の機会に論証したい。